学習に対する心得/機会平等・結果不平等を受け入れるな!
サンデル教授に学ぶ
学習・スポーツ・音楽・美術、あらゆる分野で、最も物を言うのは才能です。勉強が不得意な子供がいくら努力をしても、勉強もソコソコしかせずに遊んでいる才能ある子供に追いつくことはありません。いいですか?『ありません!』
しかし、スポーツや芸術とは異なり、この学習と言う機会だけは平等に与えられ、競争を強いられます。そして、才能がまず物を言う競争で、結果は「努力」の差だと言われる。これほど不平等な競争はありますか?
市民革命によって階級社会が壊され、ヨーロッパに民主主義が根付いて以後、機会が与えられる「平等」という名の結果には「不平等」が存在することを人類は初めて知ったのです。差別は階級だけでなく、能力主義でも同じように生じます。
機会は平等だから、頑張って結果が出ないヤツはクズという考え
最近のDaiGoの「ホームレスの命より、猫の命の方が大切。」という考えは、端的にこの「落ちこぼれたヤツは努力不足のお前が悪い。生きてる価値はない。努力したオレはそう思う。」という思想に乗っています。
でも大抵の方は、「コイツ、頭エエと思ってたけど、こんなこと言うなんてアホやな。所詮は運が良かっただけ?」って思っているでしょう。だから、謝罪に追い込まれた。
成功には運も必要だということが、成功した人間には分かっていない。学習も同じです。有名大学に必死で進んだ人間は、努力しても結果が出ない人間のことを分かっていない。学習という自分に有利な土俵で勝負できた運を分かっていないんです。
だから低学歴・非正規は全員「努力不足であたりまえ。」だと思っている。 高学歴者は同じオフィイスで同じ仕事をしても非正規が食うに困る給料しかもらえないことは当然だと思っている。DaiGoと同じです。
歴史が否定した機会平等・能力主義
こういう機会平等なんだから後は能力主義という考えが行き過ぎて、一般庶民は階級社会より貧困にあえぐようになった。だから、ロシアでは帝政を倒しただけでなく、社会主義革命まで起こった。ドイツでは社会権が考え出されワイマール憲法が作られ、富の分配が考えられるようになった。その結果、昭和の時代は、世界中で富の分配や社会主義は理想だとされた。みんな、結果もある程度平等にしないと社会全体が不幸になると分かっていたんです。
しかし、学習業界で富の分配はありません。偏差値の数字通りに学歴は決まり、多くはその学歴通りに就職は決まり生涯年収に大きな影響を与える。この所得の差が平成から拡大し、今やレーニンやワイマール憲法以前の時代に戻ろうとしている。だから、若者に小林多喜二の蟹工船という小説が、令和の世の中で受けているんです。
ハーバード大学のサンデル教授は、一次世界大戦以前に立ち返ったかのような最近の資本原理主義に異を唱えているんです。「機会平等」は平等ではないと。機会平等とセットの「能力主義」は「才能」という名の階級主義である。だから、1次世界大戦当時のように社会に不安定をもたらすと。
じゃあ、結果平等を目指せばいいじゃないか?
それでも尚、結果が不平等になるのが分かっていて、なぜいつまでも学習にしがみつくのでしょう?
民主主義が金科玉条で、教育を受ける権利さえ与えれば、その結果はすべて本人の努力不足として受け入れなければならないということを頭から教え込まれ、信じ続けている結果、凄まじく不平等を受け入れなければならない。
残念なことは、子供だけではなく、親もそのことを分かっていない点です。「じゃあ、ハンデのある学習や学歴なんか捨てて、メシを食える道を探そう!」となかなかならない。
もちろん、学歴→少しでもいい会社に就職以外の道が結構困難だからでもあります。けれど、みすみすそのラインでは失敗することが分かっているのに受け入れる必要もない。子供の尻を叩くだけではなく、ここが親の知恵の見せ所だと思います。
けれど、子供の可能性を見つけるという甘い道に逃げてはいけない
ここで教育業界が用意する逃げ道は「子供の可能性」です。現実的に困難で受け入れがたい選択から親の逃げ道を作り、そこで金儲けを企んでいるんです。
親は「可能性で飯が食えることは少ない。」と分かりながら、縋りつくんです。でも、これでズルズル学習を続け、2流大学に行って、すぐに辞めたくなるようなロクでもない企業や派遣でしか就職がないとなるのは最悪です。しかし、多くの親はその結果を見ないようにして目の前の救いに縋りつく。
でも、どこかで見切りをつけて、看護士などの学力はそれほど必要ないが食える専門的な資格を身につける、体が丈夫なら自衛隊や警察官などの安定した公務員の道に進むことを考えないと地獄を見ることになる。
わざわざ「負け組」を目指すな!
「機会平等主義」から底辺の我々が逃げ切れる道は、機会平等主義を否定する必要があります。これが、受験産業にドップリと浸かり、毎日塾で子をもの尻を叩いているオヤジの考えです。