国語が出来ない理由4段階

国語が出来ない理由を、様々な形で様々な人が解析していますが、それぞれの視点や思い込みから書かれているだけで、子供ごとに問題を整理している話は少ないです。私なりに経験から少し整理してみます。ミドリゼミではこういう点に注意して国語を教えています。

語彙能力がない

学校では習わなくても、その年齢なら当然知っているべき単語・漢字を知らないから文章を読めないというレベルです。公立中学では通知簿の3の下半分から下に当たると思います。

私にありに理由は二つあると思います。一つは読書経験だけではなく、ドラマやアニメなどを見た経験もあまりないからだと思います。熟語は学校で無理やりおぼえさせられたもので、語源と言うか生きた意味が分からないので、まるっきり汎用性はありません。単語帳を丸おぼえした英単語では長文読解で意味が取れないのと似ているのだと思います。

けれどこういう生徒に読書でもさせて語彙能力を増やそうなんか考えても無意味です。相手は知的なことに全く興味を持っていないのです。投げ出して終わりです。「英語の語彙能力を増やすためにハリー・ポッターの原著でも読め、面白いよ。」と言っているのと同じです。

もう一つは、何らかの識字的な障害がある場合です。でも両者とも学習塾という範疇では教えるのは困難です。

文章を正確に読み取れない

これは国立情報学研究所・新井紀子教授などが力を入れている分野です。少しややこしい書き方をされると文法的に解析できないというものです。「日本語は読めるけど理解できない人」はこんなに多い!情報弱者が大量生産される絶望的な事情」というもので、以前「「9割が教科書を読めていない」私立文系しか行けない子供たちの末路/新井 紀子 国立情報学研究所教授」で取り上げました。新井教授はこういう少しややこしい文章を理解できない点に注目しています。

Alexは男性にも女性にも使われる名前で、女性の名Alexandraの愛称であるが、男性の名Alexanderの愛称でもある。この文脈において、以下の文中の空欄にあてはまる最も適当なものを選択肢のうちから1つ選びなさい。

Alexandra の愛称は(  )である。

(1)Alex (2)Alexander (3)男性 (4)女性

これは小林秀雄的に文章がややこしいいということではなく、主語や述語をキチンと読み取って文章が読めないという、初期の論理的な手順が踏めないことを意味します。でも、これは能力だけの問題でもありません。誰だって、テストで急いでいるときや興味もない文章を上辺だけ読み飛ばす場合には同じミスをするはずです。

多くの場合、能力的な問題より、テストなどの時間制限がある中で追い詰められると、性格的に落ち着いて対処ができない生徒がしでかすことを私は頻繁に目にします。だから、国語の文章意図を読み取れないだけではなく、どの教科の問題でも意図を読み取れずに失敗します。性格面の問題なので、塾で注意喚起しても、やはりテストでは上がってしまって同じことを繰り返します。そして「後で落ち着いてやればデキたのに」を繰り返します。

もちろん、能力面で分からないという生徒もいるかとは思いますが、そこまで論性が欠如している中学生は少数だと経験から思います。

社会的常識がない

この現象は明確です。上に書いた語彙や文法レベルの問題がない生徒で、「小説や物語は読めるが、説明文や論説文は苦手」という場合が多いです。文章内容が易しい中学レベルではあまり表面化しませんが、高校レベルに入ってくると明確に表面化します。最近はこういう生徒が激増しています。

こういう生徒は、通常の語彙の雨量はあっても、政治経済・地理事象・歴史・哲学・科学を論じているような説明文は読めません。それらの分野の常識的な知識を持ち合わせていないからです。読書はしてきたかもしれませんが、それは好きな小説を読んできただけであって、社会的な知識を吸収してきたわけではありません。だから、多くの場合読書は無意味です。書籍を通さなくても、ニュースや動画などで知的なものにどれだけ触れてきたかが勝負になります。「読書好きの文学少女は国語の成績が悪い・・・では解決策は?」「国語の学習の基本 読書とは違う

これは、最近ネット情報やSNSの関係で、自分の興味がある分野しか読まない・見ない生徒が多いからだと思います。以前なら、雑誌や新聞を広げても、テレビを見ても関係ない情報でも嫌でも目に飛び込んでいたが最近はそれすらもないのです。以前に比べて、子供の持っている情報量は落ちてきています。

でも、これも子供の知的欲求への好奇心がベースに合って、学校や塾で教えるだけでどうにかなるものではありません。また、親が強要しても、興味がない子供はイヤイヤ見て次の瞬間忘れているので意味がありません。だから、正直対処のしようがない。

塾で国語の授業が少ない理由が分かりましたか?

以上の点は、塾でその学年の国語を教えても全く意味を成しません。原因は子供の本質的な能力や今までの子供の人生経験そのものだからです。こういう子供自身の本質に立脚する国語は教えても成果が上がらないのです。だから、塾では限られた授業数を教えてなんとかなる他の教科に割り振るわけです。

最後に、文科省が中高で定める読解力=塾で教える入試技術

これが本来塾で教えるべきことで、学校の教科書の各章の最後に書いてある「学習の手引き」の内容です。簡単に言えば、上に書いた来たことがマスターできている生徒に対して、段落構成や物語の構成を正確に把握して、作者が意図した通りに文章内容を読み取るというものです。

「下線分を考えた作者の理由は?」という問題でほぼ同じ内容の文章を抜き出して答えても✕にされた経験は誰しもあるはずです。でも、その理由を解説してくれた国語の先生は少ないでしょう。理由は、「その抜き出した文章は結論の段落で少し書き足していることであり、作者が明確に理由として述べていない。理由として述べている個所は理由の段落にあり『・・・という理由で、』と書かれている。」ということが多いはずです。

そんなものどちらでもいいじゃないかとは私も思います。でもこれは「作者が理由を明確に述べているところはどこか?」という設問であり、文章を正確に読み取っているかの判定をする設問です。でも、そういう視点から授業をする教師も講師も少なく、多くの生徒はこの設問内容すら理解できていません。だから、原因は明確に国語教師の力量や塾講師の質の問題です。

授業中にこういうことを明確に説明する国語教師は少なく、「ハ~イ、段落はこうなっていますね。」で終了の授業が多いです。理由は分かりません。ただ、私は国語の教師自体が授業の目的を把握しておらず、自己判断で適当な授業をしているからだと思います。問題も解答も明確な他教科で適当なことをしていれば問題になるでしょうが、不明瞭な国語ではこういう教師が野放しになっていることが多いからだと思います。

その上、国語ではテスト問題は自力で作りようがないので、教科書会社などの指導書を元のつくり、そちらは段落構成の正確な把握という普段の授業からはかけ離れた問題になっている。だから「こんな授業してくれたか?」と×をつけられたテストを前に生徒に聞いてもノートを確認しても、ほとんどの場合「ノー」です。国語とは「読書」などの自分勝手に好きな文章を独善的に読み散らかす嗜好ではなく、文章を「読み取る技術」だと、まず一丁目一番地を教えていないからです。

その上、読解技術は誰にでも教えられるわけではない

ところがです、この読解の技術は、相当能力が高い生徒ではないと教えきれません。文章が簡易で社会的常識や語彙能力が必要ない場合でもです。だって、明瞭な数学や理科の公式を利用できない論理力の人間に不明瞭な文章構成の論理性が理解できるはずがないでしょう。

私の経験では、関関同立に合格する高校生以上でないと無理だと思います。

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芦屋で500人以上、個別指導20年のベテラン講師が、毎日・全教科、中学生と高校生を指導します。御影高校・神戸高校、関西学院・同志社・神戸大学・大阪大学を目指す特進個別塾です。