ムリゲー古文読解/文法と単語だけでは答えられない大学入試の意味
文法と単語だけでは読めない・答えられない
これ大阪大学の過去問題です。古今著聞集の一説です。
鳥羽法皇の女房に、小大進といふ歌よみありけるが、待賢門院の御方に、御衣一重失せたりけるを負ひて、北野に籠りて祭文書きて、まもられけるに、三日といふに神水をうちこぼしたりければ、検非違使、
「これに過ぎたる失やあるべき。出で給へ。」
と申しけるを、小大進泣く泣く申すやう、
「おほやけの中のわたくしと申すはこれなり。今三日のいとまをたべ。それにしるしなくは、我を具して出で給へ。」
と、うち泣きて申しければ、検非違使もあはれにおぼえて、延べたりけるほどに、小大進、
[思ひ出づやなき名たつ身はうかりきと 現人神になりし昔を]
と詠みて、紅の薄様一重に書きて御宝殿に押したりける夜、法皇の御夢に、よに気高くやんごとなき翁の、束帯にて御枕に立ちて、
「やや。」
と驚かし参らせて、
「われは北野右近の馬場の神にて侍り。めでたき事の侍る、御使賜はりて見せ候はん。」
と申し給ふとおぼし召して、うち驚かせ給ひて、
「天神の見えさせ給へる、いかなることのあるぞ。見て参れ。」
とて、
「御厩の御馬に北面の者を乗せて馳せよ。」
と仰せられければ、馳せ参り見るに、小大進は雨雫(あめしづく)と泣きて候ひけり。
御前に紅の薄様に書きたる歌を見てこれを取りて参るほどに、いまだ参りも着かぬに、鳥羽殿の南殿の前に、かの失せたる御衣をかづきて、先をば法師、あとをば敷島とて待賢門院の雑仕なりけるものかづきて、獅子を舞ひて参りたりけるこそ、天神のあらたに歌にめでさせ給ひたりけると、めでたく尊く侍れ。
即ち小大進をば召しけれども、
「かかる問拷を負ふも心わろき者におぼしめすやうのあればこそ。」
とて、やがて仁和寺なる所に籠りゐてけり。
「力をも入れずして」と「古今集」の序に書かれたるは、これらの類にや侍らん。
問題は下線部を「現代神」とは誰のことか考えて現代語訳してね!と言うものです。
高校生を古文のマニアとでも考えているんでしょうか?
この現代神は、後ろの段落の「北野右近の馬場の神」にかかっています。この北野と言うのは北野天満宮のことで、そこの神様は菅原道真です。
菅原道真は有能で右大臣まで上り詰めましたが、藤原氏の策謀で大宰府に左遷されてそこで死去し、後に怨霊になったため、その祟りを恐れて北野天満宮が建てられたと日本史の教科書には載っています。
そこから、この和歌の現代神を菅原道真と類推して、この和歌の「何もしていないのに罪を着せらた鬱蒼としたことを思い出す。菅原道真が神にまつられた昔を」と答えろと言ってるんです。
あのさぁ、古文のマニアならともかく受験生に分かるはずないじゃん。出題者は何を考えているんだろう?
どうしたら答えられますか?って聞かれても
塾としても「みんなできないから、捨て問題。解ける問題を確実に解こう!」としかアドバイスできないですよ。
大阪大学や京都大学って、どうして受験生が答えられないと分かっている問題を出すんだろう?数学でもそうですよね?
努力した人間とそうでない人間を区別する問題を多く出さなければ、残りのそういう問題で争いになって、学力がある生徒がミスで落ちる可哀想な可能性が高くなるじゃん。
昔から変わってないけど、何を考えているのか分からない。自分たちが「頭いいっしょ!」って言う見栄? それとも数学バカや運動バカが「こうしたらできるじゃん、何で出来ないの?」っていう○○バカ系?
こういうことをするから、大学の先生って頭いいかも知れないけど、ズレてて少し?だと言われるんですよ。
こういう大学の入試対策
大阪大学では数学でも同様の出題傾向です。英語は英作文が多いですが、そんなことはありません。数学や古文では解ける問題を確実に解くしかないのです。けれど、そういう問題は合否ラインにいる受験生はみんな解きます。
結局は共通テストの得点差がそのまま反映され、二次で逆転は難しい入試になっています。神戸大学のように問題がそれほど難しくなく、学力に応じて得点差が幅広く分布する入試であれば、少々共通テストの点数が低くても二次で挽回することは可能ですがこういう大学では難しいです。
しかし、この無理ゲーな二次試験で創造性を見るという姿勢を崩さない大阪大学は、結局は二次試験と共通テストの配点を複雑化させた数通りの配点方式を用いて調整しています。
大学の権威なのか見栄なのか知りませんが、多くの受験生が解けない出題傾向は何十年も一向に変わりません。そして採点方式で帳尻を合わそうとする本末転倒をしている。
受験生はこのことをよく知り、共通テストでできるだけ得点を取っておくこと以外、こういう大学へのアプローチ方法はありません。


