素直に納得できない事件の終末/安倍元首相の事件の始発点/私の塾の役割

加害者も社会的な被害者であるという視点がないと、いつまでも繰り返される

別に、私は死刑廃止論者でも、左派系の考えを持つわけでもありません。そんなことは、このブログの毒舌をお読みになられた方ならお分かりと思います。それでも尚、今の社会を見ると「加害者は社会の被害者なのではないか?」と言わざるを得ないんです。

私の塾に出来ることは、こういう社会の被害者=無敵の人を将来作り出さないように、生徒を応援し、時には叱咤し、大学進学に一番良い高校、そしてなるべく良い大学へ進む手助けをすることぐらいです。

これからもこういう事件は増え続けると思います

上流階級は、下層の人々の犠牲と搾取の上に自分たちの豊かな生活が成り立っていることを知っている。だから、この映画が公開された時に、アメリカでは大騒ぎになったんです。

だって、社会が隠してきたことを、一番的確な形でさらけ出したんですから。

日本でも正社員は自分達の給料が、非正規雇用の搾取の上に成り立っていることを知っている。だから、加藤死刑囚の刑執行を「ざまあみろ」というだけでは済まないはずなんですが、大抵の方がは加藤被告のような失敗者を社会から排除すればよいと考えているようです。

弱者の怒りがいずれ自分たちの方に向くかもしれないことを、日本人は呑気にもまだ分かっていないんです。この感覚がまだない日本は、アメリカよりまだ格差は少ないからなのかもしれません。

この映画で、より哀れなことは、社会の底辺で弱者がより弱者を差別し、いたぶり、欲求不満のはけ口にしている。その上に、金持ちは火の粉が降りかからない世界で生きているという描写です。

加藤死刑囚をザマアミロというだけの人は、来月自分がリストラされて家庭が崩壊し、一人ぼっちにならないと言う保証はあるのか?弱者が弱者を嘲っているだけではないのか?

社会権とは人権のためにあるのではなく、社会の安定のためにある

福祉や再分配はキレイごとのためにあるのではなく、社会の不公正から不満を持つ人々を少なくするためにある。貧乏人・失敗者の救済というのは、金持ちに怒りが向かないようにして、社会の安定を図るものでもあります。

暴動や革命という暴力的な社会変革を経て長年培ってきたこの知恵で社会は安定化したのが20世紀後半です。でも、21世紀になってそのありがたみを忘れて、また資本至上主義になった現在、自分の身を守るのは自分でしかない。私にできることは、こういう風にならないように、少しでも成績を伸ばしてあげることくらいしかない。

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芦屋で500人以上、個別指導20年のベテラン講師が、毎日・全教科、中学生と高校生を指導します。御影高校・神戸高校、関西学院・同志社・神戸大学・大阪大学を目指す特進個別塾です。