推薦入試と調査書が作る偏向した社会~欧米の環境意識と日本のクラブ活動至上主義
今日は少し柔らかいお話?をしようと思います。
日本のテレビを見ていると、ハーバード大卒を売りにするタレントや、欧州委員会トップのフォン・デア・ライエン氏のような「欧米のエリート」が、やたらと高圧的でピントのずれた綺麗事を説教してくる場面によく出くわします。「多様性こそが絶対の正義だ」 「地球を守るために化石燃料も原発も即刻全廃しろ」
これを聞いて、「この期に及んで何を現実離れしたおめでたいことを言っているんだ? ちょっと頭がおかしいんじゃないか」「そもそも政治的も予算的にもバイアスがかかった学会や学者のコンセンサスが、本当に正しいのか?」と強烈な違和感を抱いたことはないでしょうか。
この傾向は、その偏向を利用して政治的地位や権力あるいは言論や学者の世界でのポジションを固めようとする限られたエリートだけのものなのかと私は思っていました、ところが、DMM英会話などでそれなりの大学を出てもオンライン英会話講師などをやらざるをえない中産階級の多数のプチ・エリートでも全く同じ状況だったの驚愕しました。まるで思想統一されたかのように、全員が同じ環境意識やSDGsに染め上げられていたのです。社会全体が偏向していたからこそ、欧州はあれほど極端な環境政策や移民政策が取り入れられたのです。そして、それから2~3年経ってウクライナ戦争後のエネルギーの高騰や移民問題が表面化した今では、DMM英会話の講師でそんなことを言う人物は誰もいなくなりました。
私は日々日本の結構優秀な中高生と接していますが、欧米の高学歴エリートや庶民のような浅はかで極端な思考を持った生徒はいません。
ではなぜ彼らがここまで極端なイデオロギーに頭がイカれてしまうのか。その元凶こそが、いま日本の文科省も大絶賛して全国の大学・高校へ導入を進めている「推薦・調査書・ディスカッション重視の入試システム」ではないかというお話です。
そして、そのディストピアは最近まで「部活偏重主義」として日本にも存在しました
1. 教室が「思想の踏み絵」になる欧米
客観的なペーパーテストで点数を競う日本と違い、アメリカやヨーロッパの入試・進学は「高校の内申点(GPA)」「エッセイ」「授業中の発言(平常点)」「推薦状」といった大人の主観評価が合否の決定権を握っています。
問題は、その評価を下す現場の教員や推薦状を書く指導者たちが「何を良しとし、何を不適切と見なすか」という基準です。本来なら人物面や論理構成、学修意欲を見るはずの主観評価が、実際には「教員の思想的眼鏡にかなうかどうか」の審査にすり替わってしまっているからです。そして、偏った思想を持つ教員が多く、評定が捻じ曲げられ、その偏った思想のレポートを書き続けないと良い大学に行けない教育制度が問題なのです。
では、なぜ現場の極端な思想に偏っている教員が雇用されるのでしょうか? それは個々の教師の性格ではなく、彼らを選抜・配置する教育委員会や州文部省、教員組合そのものが、特定のイデオロギーに染まりきったているからです。
- アメリカの学区と教育委員会: アメリカでは各学区の教育委員会が教科書採択や人事権を握っています。西海岸や東海岸のリベラル地域では過激な左派が、バイブル・ベルト(中西部・南部)ではキリスト教原理主義者が教育委員会の議席を独占し、教員採用の段階から「自分たちの教義に忠実な人物」しか教壇に立てない選別が行われています。
- ドイツの州文部省と教員組合(GEW): 連邦制のドイツでは、教育権限を握る各州の文部大臣ポストに「緑の党」が入り込み、学習指導要領を「持続可能性(BNE)絶対」へと書き換えました。さらに教員採用の実習審査や最大の教員組合(GEW)を左派勢力が掌握しているため、採用段階から「環境ドグマを疑わない人間」だけが教員として生き残るフィルターが完成しています。
こうして「思想的に偏った大人が選抜され、学校組織を固める」という閉鎖的な自己再生産ループができあがります。その結果、教室では生徒に対する過酷な「思想の踏み絵」が日常化します。
- アメリカのリベラル州(西海岸・東海岸): 教室で少しでも「不法移民の制限も必要では」「テストの点数で人種に関係なく公平に大学入試も決めるべきだ」と口にすれば、即座に教員から「差別主義者」「不寛容」とレッテルを貼られ、平常点を削られて進路が詰みます。生き残るためには、過激なポリコレや環境論を誰よりも熱心に叫ぶしかありません。
- アメリカの保守州(中西部・南部): 逆にこちらでは、理科の授業で「進化論」を疑わずに肯定したり、教会の教義に反する発言をすれば「神を冒涜する不届き者」として目をつけられ、内申点を落とされます。大人が本気でキリストの復活を信じ、進化論を否定する社会の背景には、この教育現場での同調圧力があります。
- ドイツなどの欧州: アビトゥア(大学入学資格)に直結する口頭点(発言点)のために、グレタさんばりの環境ドグマを語ることが生徒にとっての絶対条件になります。「自然界のCO2サイクルやエネルギー安全保障から見て、急進的な脱炭素は現実的か?」といった地球科学・工学的・合理的な疑問を口にした生徒は「気候否定論者」として口頭点を破壊され、進路を断たれます。
10代の多感な時期に、内申点と引き換えに偏った大人の顔色を窺い、特定の教義を論文やスピーチで反復させられた優等生たちはどうなるか。自らを正当化するために、本当にその極端な思想を信じ込む「完全な自己洗脳」を完了させて社会に出ていきます。
2. 結果として起きた「国家と都市の自滅」
こうして「教義の復唱だけが得意で、現実の物理や経済を1ミリも理解していない高学歴エリート」が有名大学から排出され、同じようにそういう教義を学校で学んで染められた多くの市民も投票した結果、政治・行政・メディアの中枢で何が起きたでしょうか。
- カリフォルニアの崩壊: 綺麗事の理念だけで突っ走り重税を課して環境やSDGsに税金投入を振り切り治安維持やインフラ整備を軽視した結果、万引きが横行して有名百貨店やスーパーが次々と撤退。森林管理や山火事対策の予算を削って環境プロパガンダに浪費した結果、大規模な山火事で街が焼き尽くされ、治安崩壊と重税に耐えかねた住民やハイテク企業(テスラなど)がテキサスへと大脱出しています。
- ヨーロッパの産業壊滅とエネルギー危機: フォン・デア・ライエン氏らが主導した「EV至上主義」と「急進的な脱炭素」「天然ガスだけはCO2排出の例外」により、ドイツが誇った世界最強の自動車産業は自爆。ロシア産天然ガスに依存したまま原発を止めたため、ウクライナ危機で電気代・ガス代が暴騰し、国内の工場が操業停止に追い込まれ、自動車産業と両輪だったBASFという大化学メーカーが国外脱出。
彼らは「自分たちは地球と正義のために素晴らしい仕事をしている」と本気で信じ切っていました。しかし、状況が変わると、その一番大切な教義の根本を躊躇もなくひっくり返した。客観的な現実が見えない高学歴ほど、社会に壊滅的な被害をもたらす厄介な存在はありません。ところがこの、狂信的な信念も、ロシアからのパイプラインを止められ燃料価格が上がっただけで霧散してしまいました。
3. 「学歴を気にしない層」のほうが圧倒的にまともな理由
ここで皮肉な逆転現象が起きます。
学校の内申点ゲームや推薦入試とは無縁に生きてきたトラック運転手、配管工、農家、現場の技術者といった「ブルーカラー層」や普通の中卒・高卒の庶民のほうが、はるかに健全でまともな現実感覚(コモン・センス)を保っているのです。彼らは日々の現場で、「ガソリン代が上がれば生活が破綻する」「警察の予算を削れば街がスラムになる」「電気代が高ければ工場は潰れる」という、誤魔化しようのない物理的・経済的現実に直面しています
大学で難しい言葉を覚え、上から目線で説教してくるエリートに対して、「お前らは安全な高級住宅街に住んでるからそんな寝言が言えるんだろ」と皮膚感覚で見抜けるのは、彼らが「内申点による思想調教」に染まっていなかったからです。
4. 同じ英会話講師でもフィリピンは日本と同程度にフラットな理由
DMMk英会話には、ヨーロッパ系の英会話講師よりもフィリピンの英会話講師の方が多くいます。彼らと話をしていると、日本人と同等にフラットで特定の偏向した考えを持っている人物は少ないです。これはフィリピンと欧州の大学入試のシステムなどの差が大きいのではないかと私は思っています。
フィリピンの大学入試では調査書の内申点はおよそ3割ぐらいの得点配分だと言われています。ところが、この調査書は学校のペーパーテストなどによって決められるもので、欧米のようにレポートの内容で決められる要素はほとんどないと言われています。
したがって、親も子も欧米のように組織だった思想統一には染まっていないからです。
5. 「もう限界だ!」――アメリカで始まった親たちの猛烈な反乱
「こんな理不尽な思想教育に、現地のアメリカ人は誰も声を上げないのか?」と思われるかもしれません。実は今、アメリカ本国では「もういい加減にしろ! 子どもを洗脳するな!」という怒りが臨界点を突破し、社会を二分するすさまじい反対運動が巻き起こっています。
- 保護者たちの逆襲と教育委員会の奪還: 全米で数十万人規模に膨れ上がった母親たちの団体(Moms for Libertyなど)が地元の教育委員会へ大挙して押し寄せ、「ディスカッションと称して偏った思想を押し付けるな」「教員の主観で子どもの成績を操作するな」と猛抗議。選挙を通じて過激なリベラル派の教育委員を次々とリコール(解職)し、主導権を奪い返しています。
- 生徒による「隠し録音」と告発: 授業中に特定の政治信条を強要したり、意に沿わない生徒の平常点を脅し取る教師の言動を、生徒自身がスマホで隠し録音してSNSで告発。不当な評価を下す大学教授を実名で晒す監視サイトも巨大な影響力を持っています。
- トップ大学が「客観ペーパーテスト(SAT)」へ続々回帰: 「エッセイや面接といった主観選抜は、思想誘導と裏口入学の温床にすぎない」と悟ったMIT(マサチューセッツ工科大学)、ダートマス大学、イェール大学、テキサス大学などは、一度廃止した「客観テスト(SAT/ACT)の提出義務化」を相次いで復活させました。「ペーパー試験を捨てれば学力崩壊も不正も止められない」と、現場のトップ大学自身が音を上げたのです「米大学が学力テスト回帰?日本の難関大も実は推薦より一般入試」「「欧米型の入試や学習」の欺瞞―階級固定型の制度」。
欧米が自ら「主観評価のディストピア」に耐えかねて血みどろの闘争を繰り広げ、客観テストの公平さへと回帰し始めている今、なぜ日本だけが周回遅れで「推薦・総合型」の地獄へと突き進もうとしているのか。これほど愚かな話はありません。
6. 実は日本にも最近まであった内申書を使った洗脳教育―かつての「部活至上主義」
ところで、「そんなディストピア、日本には関係ない」「そこまで偏った教員は日本にはいない」と思われるでしょうか。しかし、日本の保護者の皆さんも、形を変えてこれとまったく同じ理不尽を経験してきたはずです。
つい数年前まで、公立中学校や公立高校の現場を支配していた「部活至上主義」を思い出してください。なぜ、日本でこれほど息苦しい部活至上主義が定着してしまったのでしょうか。欧米のように特定の左派政党や宗教団体が教育委員会を組織的に牛耳ったわけではありません。きっかけは、もっと日常的で、大人の「ちょっとした評価システム」と「善意の思い込み」の暴走でした。
2000年代以降、学級崩壊やモンスターペアレント対応で教室が荒れ、授業や学級経営だけでは手応えを得にくくなった教員たちにとって、放課後の部活動は「言うことを聞き、慕ってくれる生徒に囲まれる唯一の聖域」になりました。加えて、授業の上手さなど客観的に数値化しにくい教育現場において、「部活で県大会に行った」「生徒を規律正しく統率している」という実績は、教員にとって最も手っ取り早い出世・評価の道具になったのです。
そこへ「土日も学校でタダで子どもを預かってほしい」という保護者のニーズと、2002年の学校週5日制(ゆとり教育)でぽっかり空いた土日が最悪の形で噛み合いました。「部活で汗を流し、理不尽に耐えることこそが生徒のためになる」という教員側の疑いようのない“善意の思い込み”と、学校内の出世競争が暴走した結果、土日返上・365日拘束という異常なシステムが現場主導で完成してしまったのです。
そして、この暴走を生徒に強制させるための絶対的な武器こそが、大人が握る「調査書(内申点)」でした。
- 「部活動を3年間最後までやり切らないと、調査書に悪く書かれて高校に行けなくなるかも」
- 「土日も休まず部活に出て顧問に従うのが『正しい中学生』の姿だ」
- 「クラブ活動を通して磨いた人間力と協調性がなければ、入社試験に不利」
こうして内申書を人質に取られ、クタクタに疲れ果てて勉強する時間を奪われ、学力を落として志望高校や大学に進めず、結局は人間力を計る面接前に学歴フィルターで就活での足切りにあった子どもたちがどれほどいたでしょうか。大戦中の「鬼畜米兵」に遡らずとも、つい数年前まで行われていた思想統制が日本にも存在したのですよ。そして、クラブ活動を途中で「もう嫌だ」と言えなかった思想統制の源は入試と調査書です。欧米でいま起きている事態は、まさにこの「部活至上主義」の矛先が企業や社会などの行き過ぎた従属を求める「政治思想・イデオロギー」へとすり替わったものです。
日本では「部活動の継続」が踏み絵だったものが、欧米では「過激なポリコレへの忠誠」や「環境ドグマの復唱」という頭の中身の審査に変わっただけ。大人が内申点という絶対的な生殺与奪の権を握り、自分の好む型に生徒をはめ込んで従順なロボットに仕立て上げる構造は、寸分違わず同じです。
6. 日本のペーパー入試は「子どもの脳みそを守る防波堤」だ!・・・?
ところが、この部活至上主義は教育や社会の見直しなどではなく、「中高生で苦労したクラブ活動なんかに、教師になってまで付き合いたくねぇよ。だったら教師になんかなるか!」という健全なZ世代の就活により崩壊しました。「大学進学よりもクラブ活動で人間力育成!」という頑なな教育信念は何だったのでしょうか? 天然ガスのパイプラインを止められただけで環境至上主義の手のひらを返したドイツと大差ありません。
その一方で、クラブ活動を崇拝する日本の教育改革を叫ぶ活動家教育関係者たちは、今度は「これからは欧米のように、ペーパーテストの一発勝負をやめて、面接や推薦、探究活動を重視すべきだ」と無邪気に繰り返しています。彼らは本当に無邪気に「ペーパーテストより人物本位の推薦入試」「推薦入試の青田買いで定員充足」などと考えてのでしょうか?
高校の先生はともかく、大学の先生が偏ったバカげた考え方を持った人物が多いのかは、ネットや新聞での論評やテレビのコメンテーターを見ているだけでもお分かりでしょう。彼らを見ていると、アメリカや欧州のように「自分の考えは正しい、絶対だ」と無邪気に信じている人間が、「だから当然こういう人物が重視だ」と無邪気に選別をしようとしている意識がないとは思えません。
大人が生徒の「人間性」や「考え方」を査定する社会は、必然的に「クラブ活動が人生の一大事の大学進学よりも重要」という「大人の思想に従順なカルト的優等生の暴走」を生み出しました。これを同じことが繰り返されない保証な日本でもありません。
名前を伏せ、出自を隠し、どんな思想信条を持っていようが、当日書いた「数学の解答」や「国語・英語の論理」だけで容赦なく白黒をつける日本のペーパー入試。この一見すると冷徹なシステムこそが、生徒を教師の創造性と成長を守り、大人になっても極端なイデオロギーに染まらない「冷静で現実的な知性」を育ててきた最大の防衛線だと思いませんか?。
日本の部活至上主義ですらあれほど子どもたちを苦しめ、教育を歪めてきたのに、今度はそれを推薦入試などを広めて「子どもの思想や人間性の査定」という最も踏み込んではいけない領域にまで広げようというのかが、私とても不思議で危惧しています。


