国語学習の誤解/本を読めば成績が上がる?/受験のための国語学習で本を読まなくなる
よくある誤解/国語と読書の関係/中学生編
国語と読書の関係は難しく、大きな誤解があります。その一つは、本を読まないから国語の成績が悪いという誤解です。以前は「そんなことはないやろ。」と思っていましたが、最近は「それもあるか・・」と思うようになってきました。「国語の学習の基本 読書とは違う」
これには2段階の理由があります。まず最初は中学生の話です。特に、中学受験をしていない公立中学で通知簿が3レベルの生徒は読書はしないし、問題集も読まないし、要するに文章に接する機会があまりにも少ないから語彙力がなさすぎて成績があがらないというお話です。これは読解力という中学の国語学習以前に、小学校で学習する漢字や熟語という日本語レベルの学力がなさすぎることが原因です。当然、国語の教科書だけではなく社会も理科も全教科の教科書の理解ができません。
だから、このレベルの中学生に「教科書を読め」と言っても、あまりの語彙力がないために不可能で教えようもない事態に陥ります。中学1年生に高校の英語の教科書を読ませているような状況に陥るからです。
それに加えて、このレベルの中学生が学習や努力の垣根が低く、漢字や熟語を覚えることさえできないという問題にぶち当たります。漢字を覚えるように指示しても書き取る努力を嫌がって、問題集や教科書をボ~っと眺めるだけです。「成績が上がらない子供の暗記・・・写経に挑戦」
そして、部首などの組わせで漢字を覚えることもなく、ボ~っと眺めたイメージとして認知しているだけなので、いざ書くとなると部首間のバランスがおかしな象形文字のような漢字になります。「象形文字を書く生徒たち/字が汚いからではない」
もちろん、このレベルの生徒に「中学で困らないように本を読め」などと小学校時代に言っても聞きはしません。だから、無理やりにでも近所で厳しい先生が直接指導している中学受験塾に放り込んでしつける必要があります。「私が親なら行う子育て/簡単で間違いがない/ゲーム・そろばん・公文・中学受験を利用」
高校生で国語が苦手な生徒/情報力の不足
こちらは情報摂取の機会が少ない生徒が多いことに起因します。あまりに社会常識や社会知識がないために、進学校の生徒で語彙力はある程度あって小説は読めても説明文が読めないのです。日本語は読めても、情報不足から何を論じて何を結論付けているのか分からないのです。「国語の長文読解ができない生徒/物語は読めるが説明文は読めない生徒の処方箋はない/子育ての集大成」だから、小説をどれだけ読んでるかではなく、ニュースなどにどれだけ接してきたかが問題になります。
これも学習塾や学校だけでは対応はできないです。科学・芸術・政治経済・福祉・環境問題・・・・などなどすべての事象に「高校生なら知ってるはず。」と出題側が判断して教科書に載せられテストで出される文章が把握できないのですから、国語の読解だけを教えても無理なんです。「「9割が教科書を読めていない」私立文系しか行けない子供たちの末路/新井 紀子 国立情報学研究所教授」
ですから、こういう生徒には「本」「読書」の必要性は感じています。ただし、それは「小説」に対する読書などではなく、情報媒体に接しているかどうかということです。
語彙力と情報力があっても国語が苦手な生徒/読解力と授業の不足
語彙力と情報力があってからが初めて「読解力」という国語の本当の学習に足を踏み込むことになります。このレベルになると「読書と国語の学力は関係はない。」という塾本来の解説ができます。
読書とは本を読んで誤解でも理解不足でもなんでもよいから「自分で感じること。」が主体であり楽しみの源泉です。ですから「感想は十人十色」ということになります。一方「国語」とは、その文章に作者が書こうとした内容を誤解のないように理解するために、文章や段落の構成を理解する解析作業です。国語の楽しみを教えるものではありません。要するに、社会に出た後に素人の上司や他部署の書類を間違いなく理解するための準備だと私は理解しています。稚拙でも面倒でも意味を正確に読み取らないと酷いことになります。義務教育である国語は、読書の楽しみという教養を教える以前に、文章を正確に読む教育に重点を置かれています。感想は、正確に読書を読み取った後の話です。
一方で、読書は「作者の意図」など関係なく、読み手側が思ったことを好き勝手に感じて言えばいいのです。作者の意図がまったく読み取れていないピント外れでも別に構わないわけです。エンターテイメントとはそういうものです。
この国語教育とエンターテイメントとしての読書の混同が生徒や親が国語の学習を理解しづらいものにしています。一方で、教師側にもこの混同が見られ、教育としての国語をで十分な授業をしている先生方が多くみられます。だって、読書が好きで国語の先生になった人が多いから、情報摂取の作業として国語を割り切れないのだと思います。
その成果、授業では「読書」を教えて段落構成などの説明も不十分であるにもかかわらず、先生自身が教養読書から脱却できていないから読解のテスト問題を作れないために、教材会社の「読解問題」をテストで出すことになります。「学校のノートを復習しても、テストでは全然わからない。」ということが頻発します。
だから小論文や感想文に対する誤解が生まれる
小論文などは「いいことを書いたらいい点数がつく。」と誤解されている方が多いかと思います。この教養思考から来る考えは間違いです。結論・理由・その理由を強化する具体例が齟齬なく明確な論理手順で書かれているか見る論理性の評価をしているんです。国語の教育的側面を見ているにすぎません。それを、小いかに高尚な自分勝手な感想を書くかと勘違いしている方が多い。
これも国語と読書を勘違いしていることから起こります。国語能力とは文章を読み書く論理性のことです。内容が「こいつは凄い。」と大人が驚嘆するレベルか、あるいはあまりに社会知識がなく「こんなヤツ入れても教えられへん。」と学校が判断するレベルか、あるいは判断が異常で「こんなヤツ入れたら周囲が引っ掻き回されて大変なことになる。」と大人が引き攣るレベルの生徒でない限り、本人の「感想」は評定されません。「小論文で落とされた生徒/何を書けばいいのか?」
ネットの普及で国語能力が落ちるという一般論
語彙力もない子供がyoutubeのエンタメ系の動画ばかり見てクラブ活動ばかりしていれば、公立中学の通知簿3のような子供になり、この時点でもはや手遅れになります。そういう意味で、ある程度の読書習慣は大切です。
一方、高校情報摂取不足の生徒では、読書だけしていても説明文は読めないし、小論文なども書けません。youtubeの情報系の動画などを見て効率的に情報を摂取すべきです。この情報摂取能力は、大学入試レベルでは国語だけではなく、英語の長文読解でも大切になってきます。
英語の長文読解でも必要な情報力
最近は英語の長文読解でも、社会常識や社会知識が必要な英文が出題されることが多くなってきています。親世代のように英語さえ読めれば内容が分かるものではなくなってきています。
英語でもこのようなことになってきている理由は、あまりに社会常識も知識もない大学生に「こんなヤツら教えられへん」と大学側が苦慮している結果なのではないかと思っています。理系では私立大学の入試科目に国語はないし、国立でも二次試験にはないから、国語の代用として使われている側面もあると思います。
だって、進学校の優秀な生徒でも、あまりの情報力のなさにあきれ果てることが多いですから。