「〜ですよね」と言う子供の限界——論理ではなく「感情の共有」で破綻する国語力
国語の学習段階に関しては「国語が出来ない理由4段階」、国語の学習方法は「中学生の国語の学習方法」「高校生の現代国語の学習方法」「高校生の現代国語/小林秀雄的な作為的に意味不明な説明文の読み方」をご覧下さい。
小論文が書けない高校生の共通点
高校生に小論文を書かせると、3人に2人は論理が破綻します。
「結論」と「理由」が全く噛み合っていない。 あるいは、理由を支えるための具体例が明後日の方向を向いている。
そうした答案に対し、「ここが論理的に矛盾しているぞ」と指摘すると、多くの子が不機嫌になるか、怒り出します。
「自分はこう思って書いたのに、なぜ否定されるのか」と。
「〜ですよね」に潜む幼児的な甘え~成人しても進歩はない
彼らは「文章の論理的な欠陥」を指摘されているだけなのに、「自分の人格を攻撃された」と錯覚してしまうのです。
大人の文章でも、安易に「〜ですよね」と書く人間がいます。 客観的な事実や論理で相手を納得させる手間をサボり、「私の頭の中、あなたも当然分かりますよね?」と感情の共有を強要しているだけです。
「自分の気持ちは、他人も当然共有しているはずだ」という甘えた認知。 この幼児的な精神構造のままでは、入試の小論文など書けるはずがありません。
そして、このタイプの子どもは現代文の長文読解も例外なく壊滅します。
教える側も「~ですよね」で無理
文章を筆者の視点から鳥瞰(俯瞰)せず、すべて「自分の主観という色メガネ」で読んでしまうからです。細工者も自分の視点と同じ視点で書いていると思っているから「~ですよね」ですよねと読んでいるのです。
大学入試の現代文とは、文学的な鑑賞ではありません。 「筆者がどういう論理手順を踏んで結論を導いているか」という客観的な骨組みを追うゲームです。そこを「~ですよね」で完全に勘違いしています。問題はその点を指摘するような授業が、学校ばかりではなく、塾や予備校でも行われていないことです。そもそも教える側が分かっていないと私は思っています。
だから、授業では「~ですよね」と論理性のギャップなどを指摘することもなく、ただ「ハイ、段落はこうなってますね。」「(学習の手引きによると)ここはこうなっていますよね。で結論だけを教えて終わりです。子供はなぜそうなっているのか分かっていません。
そして、そういう教師はテスト問題を作れるわけがないから、教科書会社が作った「~ですよね」と読んでいれば間違う論理展開をの問題を出題します。子供は「国語なんか授業を聞いていても役に立たない。」ということになっています。
ところで、予備校が出している大学入試問題などの解説もメチャクチャで理解不能なものが多いです。予備校などが正解を無理やり捻り出して(それが大学側の政界かどうかは分からないが)、無理やりな解説になっているものが非常に多い。子供から「この解説どういうことですか?」と聞かれても、私の「そうやな。アホな解説やな。無理やりやな」としか言えないことは多くあります。
「~ですよね」で書かれる文章が教科書や入試で選ばれる理由
入試や教科書に出てくる文章は、必ずしも名文ばかりではありません。
教科書や入試問題に、なぜ大して有名でもない知識人や学者の文章がわざわざ選ばれるのか。 理由は簡単です。彼らの文章が論理展開の下手くそな悪文だからです。ベストセラー作家のように読者を気持ちよくスラスラ読ませる技術がなく、自分の感情や思い込みが先行して論理が破綻している。 出題者は、そうした欠陥のある「~ですよね」の文章を素材として放り込んできます。
あるいは、小林秀雄のように意図して論理をひねくり回す文章も同じです。 あえて整合性を破壊して煙に巻き、「高尚で深遠な文章」に見せかける。読む側に「この難解な文章を理解できる自分」という歪んだ快感を与えるタイプの文章です。
出題者の罠に綺麗に引っかかる子どもたち
論理が破綻している悪文や、わざと論理をねじ曲げた文章に出くわしたとき、自分の感情を中心に読む子どもは一瞬で理解不能に陥ります。「~ですよね」と作者が書いていても、子供は文章自体の論理展開を客観的に追えないため、勝手な自己流の思い込みで「~ですよね」と誤読を始めるからです。
出題者はそんなことはまるわかりです。だから、作者の稚拙な文章でも「こういう文章があるから、作者はこの段落ではこう考えていて、段落構成と論理展開はこうなっている」と読めない「~ですよね」組は「必ずここで引っかかる」と罠を張って傍線部を引いて「これはどういうことですか}と聞いてきます。そして、生徒たちは綺麗に間違えて撃沈するのです。
国語とは、悪文や難解な文章のノイズをかき分け、「この筆者は結局何を言っているのか」という意図を冷徹に抽出する訓練です。 それにもかかわらず、学校の授業では「登場人物の気持ちを考えましょう」といった情緒的な指導ばかりが繰り返され、論理的な読み方を教える指導者はほとんどいません。
関関同立が求める「基礎学力」
発達心理学では、幼児が「自分が見ている世界は他人も同じように見えている」と思い込む状態を「自己中心性」と呼びます。
大人になる過程で「他人は自分と異なる前提で生きている」と気付き、客観的な論理を獲得していく。 「〜ですよね」で済ませ、自分の感情をそのまま答案にぶつける生徒は、知能の認知発達が幼児の段階でストップしています。
以上のように書いてきた内容を高校生に指導しても、それが分かり改善していける層と「自分の考えを否定されている」と分からない層にきれいに分かれます。後者にいくら論理を教えても受け取ることはありません。
長い指導経験で私がこのラインを明確に感じるのは関関同立のラインです。このレベル以上では、この論理が理解でき、それに気づきさえすれば国語の読解力は上がります。
国語の読解力てゃ読書量などとは関係なく、この論理性を把握できるか、出来ないかの差しかありません。
言い換えれば、関関同立以上の難関大学が求めているのは、単なる知識の量ではありません。
- 悪文や難解な論理に惑わされず、筆者の意図を客観的に見抜く力
- 自分の主観を切り離し、矛盾のない論理をイチから組み立てられる知性の基礎体力
共通テストの現代国語ではより明確
共通テストの文章量は長く、詳細に丁寧に文章を読んでいてはとても時間内に解ききれる量ではありません。じゃああ文章量をどうさばいていくのか?
それは一文一文を精査するのではなしに、どちらかというと斜め読みに近いような形で、「ああ、作者はこの段落ではこういう文章を持ってきてこう考えているんだ」ということを大雑把に読んでいくのです。
そのためには、「ああ、この文章が持ってきてこうなって、次の段落ではこういう文章を持ってきてるから、こういうふうに理由をつけてるのだな、」あるいは「こういうふうな例を持ってきてこう考えているのだな」と作者の文章の一分一分に同化して「そうですよね」と読むのではなく、作成の意図を鳥瞰しながら読み飛ばすことができる論理性が必要なのです
当塾の指導方針
当塾では、子どものご機嫌を取るような「お気持ち指導」は一切行いません。
小論文の添削では自分の書いた文章の矛盾を突きつけられたときに、感情で不貞腐れず、「確かに辻褄が合わない、どう直すべきか」と論理的思考ができる生徒をを鍛え上げます。国語の長文読解も同じです。なぜその正解に結びつくのか、論理的な志向を鍛えます。
自分の感情に逃げず、本物の論理力を身につけて関関同立以上を突破したい生徒だけ、扉を叩いてください。


