「学校と塾の二重通学はコスパ最悪」は本当か?学習現場から考える
ニューズウィークに「受験のために学校と塾の両方に時間を取られる日本の教育はコスパもタイパも最悪」という記事が出ました。この記事について考えていこうと思います
毎日のように部活動や学校の課題に追われ、夜遅くまで塾で机に向かう高校生たちの姿を見ている保護者の方からすれば、「本当にそこまで通わせる必要があるのだろうか」「もっと効率的な方法があるのではないか」と感じられるのも無理はありません。
しかし、長年個別指導の現場で生徒たちと向き合ってきた立場から申し上げますと、この「二重通学=非効率」という見方は、高校の学びの本質と大学入試の現実を見落としています。
なぜ、日本の高校生は「徹底した二重学習」をしなければ上位の成績を取れないのか。現場の実態から見えてくる3つの理由をお話しします。
高校の学習は「1回聞いて理解できる」ほど浅くありません
中学までの学習であれば、学校の授業をしっかり聞き、家で出された宿題や復習をこなしていれば定期テストで高得点を取ることができました。しかし、高校の学習――特に数学や理系科目――は、概念の抽象度が跳ね上がります。
公式を1つ教わって、すぐに類題が解けるようになるほど甘くはありません。「なぜこの式が成り立つのか」「どこで論理が破綻しているのか」を、自分の頭で悩み、試行錯誤して行き詰まる時間が脳の構造上どうしても必要なのです。
ところが、大学入試の過酷なスケジュールを前にして、学校の授業を受けた後に「さあ、ここからじっくり悩んで復習しよう」と構えていては、あっという間に次の単元が押し寄せて消化不良を起こします。
塾が学校より先に進めるのは、単に授業の補助をしているのではなく、「生徒が自力で考え抜くための時間を前倒しで確保している」までの徹底した学習が予習というのが現場の真実です。
〈参考ブログ〉
高校生と中学生の学習の違い/数学の学習が決定的に違うことが分からない高校生は失敗する
「授業を分かりやすく受けるための予習」では意味がありません
ここで注意していただきたいのは、「予習」という言葉の捉え方です。「明日の授業についていくために、教科書をさらっと読んでおく」程度の予習では、難関大を目指す学力は身につきません。
上に書いたように、当塾が春休みや夏休みなどの長期休暇に求めているのは、、「生徒が自力で考え抜くための時間を前倒しで確保している」学習です。
自力で山を登ろうとして、どこで足を取られたのかを肌身で知っている生徒だけが、学校の授業や個別指導の解説を聞いたときに、「なるほど、自分が悩んでいた部分はこう繋がっていたのか」と、一段高い視点から知識を深く吸収することができます。
授業を聞いて「分かった気」になってから復習するのではなく、「自力で格闘した後に、授業を答え合わせの場として使う」。この順序を守れるかどうかが、理数系の思考力を伸ばす決定的な分岐点になります。
その上、予習で理解できるまで自己学習しておかないと受験に間に合わない
それでは、この徹底した自己学習を復習という授業後に持ってくる生徒ではどうなるでしょうか?
この自己学習をしている間に、学校の授業は先に先に進まれることになります。だから自己学習が十分できないままに学習はさらに進み、理解不足のまま定期テストを迎え、テスト前に主要科目の数学や英語の理解不足が積み上がるだけでなく、数学と英語だけでいっぱいいっぱいになって他の教科にまで学習が及ばない状態になります。
このような状況を繰り返し、ほとんどの生徒は偏差値が上がらずに、志望する大学に届かないということになります。
〈参考ブログ〉
新高校1年生は半年分の数学と英文法の予習を進める! その進捗とは?
新高校1年生は英語の予習も今から始めよう/頭から英語が読めるようになろう
この記事の「海外には塾がないから合理的」という議論の落とし穴
記事ではよく「欧米の高校生は塾に通わず、学校だけで完結している」と日本の教育が批判されます。しかし、これは高校の成績のつけ方や大学受験のルールそのものが違うことを無視しています。
欧米の高校教育は、数週間かけて文献を調べながらまとめるレポートや、日々の課題提出・授業態度(平常点)の積み上げが評価の中心です。時間をかけて調べ学習ができる環境であれば、学校の講義をきっかけに自学自習で進めることは十分に可能です。
さらに、この作者のようなタイプの論調が無視する欧米との大学入試制度には以下の違いがあります。
① 米国の共通テスト(SAT):基礎リテラシーの適性検査
米国の大学進学で用いられるSATは、日本の共通テストと比べると要求される学力の水準がはるかに基礎的です。
- 出題範囲: 数学の中心は日本の「中学〜高1前半」レベルにとどまり、数II・Bや数IIIのような高度な微積分やベクトルは出題すらされません。
- 電卓の使用: 試験画面上で高性能な関数電卓やグラフ描画アプリの使用が全面的に認められており、方程式の解や交点は機械が算出してくれます。
- 役割: 難問でふるい落とす選抜ではなく、「最低限の読み書き・計算リテラシーがあるか」を測るスクリーニング(足切り)に過ぎません。
② 国際バカロレア(IB):道具を使いこなす「研究室型」の探究
一方、国際バカロレア(特に上級コース)はSATのような平易なテストではありませんが、日本の入試とは「目指している知性の形」が全く異なります。
- 思想: 大学の研究室で論文を執筆するプロセスに近く、暗記した解法パターンの引き出しを競うものではありません。
- 手法: 課題に対して自分で論理を組み立て、根拠を示して結論を導けるかを評価します。道具としての関数電卓を使いこなすことは当然の前提であり、時間をかけて文献やデータを集めて執筆する論文課題(内部評価)が成績の大きな比重を占めます。「手元の道具や文献を駆使して、課題を論理的に完結させる力」を問う試験です。
③ 日本の大学入試:手ぶらで難問に挑む「自力完結・極限型」
対する日本の一般入試はどうでしょうか。
電卓も文献も持ち込めない密室で、極限の制限時間内に、初見の複雑な論理パズルを「鉛筆1本でゼロから解き切る腕力」を求めてきます。
もし、大阪大学や神戸大学といった難関国公立大学を目指す日本の高校生が、言葉の壁(英語力)なしで米国のSATを受ければ、数学は満点が当たり前、総合でも全米上位1〜2%のスコアを難なく出せるだけの能力を備えています。
最初から道具の持ち込みや文献参照が許されている欧米のスタイルだけを見て、「手ぶらで難問に立ち向かう訓練を重ねている日本の教育や塾通いはコスパが悪い」と切り捨てるのは、問われているルールの違いを無視した乱暴な議論です。
4. 東アジアが共通して抱える「塾の必然性」と学力水準の真実
「道具を持ち込ませず、鉛筆1本で難問を解き切らせる」という選抜システムは、日本独自のものではありません。中国や韓国、インドも全く同じ思想で作られています。
どちらの国も、公正さを担保するために一発勝負の厳格なペーパーテストを課し、電卓などの持ち込みを一切認めません。だからこそ、学校の1回きりの授業だけでは到底届かず、放課後に塾へ通って自力で考え抜くまで徹底的に演習を重ねる学習が必要不可欠になってきたのです。
そして客観的な事実として、日本や中国、韓国の生徒たちの学力水準が、アメリカの生徒たちより低いなどということは一切ありません。
国際的な学力調査(PISAなど)を見ても、数学的リテラシーや科学的応用力において東アジア勢は常に世界トップクラスを占めています。「欧米に比べて東アジアの教育は非効率で遅れている」という言説は、実際の学力データを無視した偏見に過ぎません。
5. 「大人への知的通過儀礼」を人生のどの段階で迎えるか
では、なぜ欧米の中高生はアジアのような猛烈な受験勉強をしなくて済むように見えるのでしょうか。
それは、単に「負荷をかける時期を先送りしているだけ」です。
欧米の大学、特にアメリカの名門大学では、中高時代に比較的無理のない学習で済んでいた代償として、大学入学後に毎週数百ページの文献講読や膨大なレポート提出を課され、文字通り寝る間も惜しんで勉強させられます。基準に届かなければ容赦なく退学処分になります。
つまりこれは、「誰の手も借りずに、独力で壁を乗り越えるという『大人への知的通過儀礼』を、人生のどの段階で通過させているか」という社会的な設計の違いに過ぎないのです。
- アジア: 高校時代に極限まで自分と向き合い、自力で難問を突破する思考の筋力を鍛え上げる
- 欧米: 高校までは基礎と適性を測るにとどめ、大学に入ってから専門的な課題と格闘させる
この全体像を見ずに、「欧米の中高生は塾通いもせず楽しそうなのに、日本は二重通学でコスパが悪い」と高校の時期だけを切り取って礼賛するのは、制度の片面しか見ていない議論です。
日本の大学受験勉強について
学校の課題に追われながら、長期休みに塾で先取りの演習をこなす生徒たちの姿は、一見すると負担が大きく、遠回りをしているように見えるかもしれません。
しかしそれは、耳触りのいい「要領の良さ」に逃げず、誰の助けも借りずに自分の頭だけで問題を突破する力を鍛えている貴重な時間です。
道具も助けもない試験場で、自分の頭脳だけを頼りに難問を突破した経験は、大学進学後はもちろん、将来どのような未知の壁に直面しても逃げずに考え抜く「一生モノの知的な足腰」になります。
過酷な大学入試という現実を前にして、生徒たちが本番の試験会場で立ち尽くすことのないよう、当塾はこれからも「自分の頭で考え抜く先行学習」の重要性を伝え、粘り強く指導を続けてまいります。


