鹿鳴館の華・東洋の真珠 陸奥亮子 Z世代はどう感じる?

一昨日のブログで疲れたので気休めに書きます

地元の中学3年生では明治から一次大戦が期末テストの範囲です・・・遅すぎるやろ。公民どうするねん!

ということで歴史の教科書の明治のあたりを開くと、明治の近代化を支えた男たちの顔ばかりが並びます。しかし、現代でも女優でそのまま通用するほどの美貌の女性の写真が1枚だけ載っています。

不平等条約改正に尽力した外交官、陸奥宗光の妻、陸奥亮子です。

教科書では鹿鳴館の華と紹介され、アメリカの社交界で「東洋の真珠」と絶賛された彼女の人生は、単なる「美人の玉の輿ストーリー」ではありません。それは、厳しい現実の中に身を置きながら自らの意思で未来を切り拓いた記録です。

1. 悲惨な人生の始まりの一方で響き渡る名声

亮子の物語は、幕末から明治初期の東京・新橋から始まります。元々は武士(旗本)の家に生まれたものの、明治維新の混乱で家は没落。家族を支えるため、彼女は花街へ身を売られる悲劇から始まります。

武家の娘は「小兼(おかね)」という名で新橋の座敷に上がることになります。彼女はどんな気持ちで座敷に上がったでしょう。しかし、その美貌とスタイルは瞬く間に噂となりました。彼女を一目見ようとお座敷には連日、当代一流の政財界の重鎮たちが詰めかけたと言います。当時の新橋の舞妓や芸者は、今の芸能界のアイドルや女優です。彼女は時代を代表する美女としてその名を天下に轟かせることになります。

しかし、彼女は単に容姿が良いだけではありませんでした。亮子は唄、踊り、三味線、あるいはその場を盛り上げる機知に富んだ会話といった「芸事」のすべてにおいて、他の追随を許さない圧倒的な実力を持っていました。その洗練された教養と、プロフェッショナルとして磨き抜かれた身のこなしこそが、彼女の人気を不動のものにしたのです。

しかし、最近までの花街には、厳しい掟がありました。一人前の大人の芸者として認められるために、莫大な衣装代や育成コストを精算し、有力な後ろ盾(旦那)を得るには、水揚げというシステムがありました。子供も読んでいるかもしれないので詳しくは書きませんが、大人なら全員ご存じでしょう。10代前半という若さ、今なら中学生という年齢で、彼女もまたその厳しい大人の世界の仕組みの中に組み込まれていくことになります。

歴史の口惜しさ:和装の写真が残っていない

ここで、現代の私たちにとっては非常に惜しまれることがあります。これほどまでに美女として名声を轟かせ、新橋のトップとしてもっとも艶やかに着物を着こなしていた若き日の亮子の「和装(芸者姿)の写真」は、現在ほとんど残されていません。私も知っているのは、陸奥宗光に随行してアメリカに渡った時に撮られたこの教科書の洋装の写真だけです。しかし、元トップのトップの芸者だった彼女は、着物姿こそがとんでもなく美しかったらしいです。

当時は写真技術が日本に普及し始めたばかりの超高級品だったこと、あるいは後に彼女が背負う「国家の役割」のために、彼女の芸者時代のやそれを連想させる着物姿は意図的に歴史の表舞台から消されてしまった・・・という話もあります。私たちはただ、当時の男たちの熱狂的な記録から和の美貌を想像するしかありません。

2. 17歳の決断:渋沢家の大物から、崖っぷちの「コブ付き男」へ

亮子の絶大な後ろ盾(旦那)となっていたのは、あの渋沢栄一の従兄弟であり、時の大物実業家でもあった渋沢成一郎(喜作)だったと言われています。最高権力者がバックについていた亮子でしたが、明治5(1872)年頃、渋沢が一時的に政治的・経済的な窮地に立たされるという大事件が起きます。

後ろ盾が揺らいだ亮子の元には、次のスポンサーになろうと多くの富豪たちが群がりました。しかし、17歳の亮子、今なら高校2年生の女の子が選んだのは、真逆の男でした。 その男が後に夫となる陸奥宗光(むつ むねみつ)です。

当時の宗光は、先妻を病気で亡くしたばかりで、幼い2人の男の子を抱えるシングルファザー。しかも借金まみれで、仕事はできると評判は高くても、貧乏でコブ付きでまだ地位もない若い役人でした。

ここで亮子は、驚くべき「覚悟と行動力」を見せます。 彼女はお座敷で出会った宗光の可能性に惚れ込み、自らの身請け代金に蓄えを差し出し、さらに持ち前の聡明な交渉力で周囲を説得し始めます。17歳、今でいえば高校2年生の女の子がですよ。相手は、才能があるとはいえ、二人の子供がいるオッサンですよ。彼女はいくらでも楽が出来る道が用意されていたのにですよ。

宗光の能力を評価していた伊藤博文たちの政治の大物は、この亮子の姿に感服して、足りない資金はカンパし、置屋などの周囲を説得しました。こうして、二人は実質「身一つ」で結婚へとこぎつけました。

「天下に名高き美貌」を誇り、安定した富豪の庇護を受ける道もあった中で、あえてそれを全て捨て、自らの意思と財産を投じて「男の器量」に命を賭けた、17歳の少女の大決断でした。

3. 22歳の試練:国家反逆罪による夫の逮捕と「黒髪のお守り」

しかし、幸せは長く続きませんでした。結婚からわずか数年後の1878年、亮子に人生最大の試練が襲いかかります。夫の宗光が突然、政府に逮捕されてしまったのです。

逮捕の理由は「土佐立志社の獄(りっししゃのごく)」と呼ばれる、明治政府を揺るがした国家転覆未遂事件への関与でした。 前年の1877年、西郷隆盛率いる不平士族たちが明治政府に対して最後にして最大の反乱「西南戦争」を起こします。この時、政府のやり方に強い不満を抱いていた高知県(土佐)の政治団体・立志社の一部が、西郷の軍勢に呼応して「政府の幹部を暗殺し、クーデターを起こそう」という危険な計画を裏で進めていました。 当時、政府の官僚でありながら現体制に絶望していた陸奥宗光は、この計画を事前に知りながら黙認し、さらに反乱軍のために武器の調達や資金集めの仲介をしていたという、まさに国家反逆の罪に問われたのです。

これにより、宗光は5年間の禁獄処分となり、山形や宮城の監獄へと送られました。 22歳になった亮子は、一瞬にして「国家反逆犯の妻」となり、再び世間から孤立し、困窮します。しかも、自分の子供でもない先妻の子供連れです。普通の人間なら逃げ出す絶望的な状況です。もちろん、トップ芸者として名を馳せていた亮子なら、いくらでもその道はあったはずです。

しかし、ここから亮子の「本当の覚悟」が始まります。

彼女は、宗光の連れ子たちを実の子供以上に深い愛情で育てながら、極貧の生活に耐え抜きました。その健気さに打たれた伊藤博文や津田出といった明治のリーダーたちが、リスクを冒して陰から国家反逆者の妻である彼女に生活費を送り続けたほどです。

亮子は監獄の宗光へ、自分の黒髪を編み込んだお守りと、励ましの手紙を送り続けました。宗光は獄中でこの手紙に涙を流したらしいです。

4. 鹿鳴館の華:美しいだけではない、圧倒的な存在感

5年の刑期を終え、出獄した宗光は、伊藤博文らの引き立てでヨーロッパへ留学。帰国後は怒涛の勢いで政界のトップへと駆け上がります。

そして迎えた明治10年代後半、近代化の象徴である「鹿鳴館」のダンスホールに、ドレスを身にまとった亮子が現れます。

彼女は他の華族のお嬢様たちとは一線を画していました。飛び抜けた美貌の上に、逆境の絶望を耐え抜い凛としたたたたずまい、そして新橋時代に極めた「トップクラスの芸事の身のこなし」があったからです。

単に美しいだけの飾り物ではなく、完璧な社交術で夫の政治基盤を固めていく彼女を、人々は「鹿鳴館の華」と呼びました。

5. 東洋の真珠:ワシントンで白人たちを魅了した知性

夫の宗光が不平等条約改正のために駐米特命全権公使となり、亮子もワシントンへと渡ります。 当時の欧米社会では、今の差別など問題にならないほどアジア人女性は侮られる存在でした。しかし、亮子がパーティに現れた瞬間、ワシントンの社交界は圧倒されました。

完璧にドレスを着こなす抜群のプロポーションと、美しく知性的な顔立ち。それに、日常の社交に困らない英語を流暢に話す語学力まで身に着けていたと言われています。そして、かつて新橋の頂点で磨き上げたコミュニケーション能力、迅速かつ正確に場を捉える知性。

そして、その美貌と社交術の裏に隠された彼女の半生を知ったアメリカのメディアは、彼女を「東洋の真珠」と最大級の賛辞で報じました。彼女の美貌と知性は、夫・宗光がのちに「不平等条約の改正(陸奥外交)」という歴史的偉業を成し遂げるための外交カードとなったのです。

エピローグ:逆境を生き抜く「覚悟」の美しさ

のちに亮子は、宗光との間に実の娘「清子」を授かりますが、十代半ばで病により夭折。清子は涼子の美貌を受け継いでいてとても美しかったと言われています。夫の宗光も同じ病で先立ち、亮子自身も45歳という若さでこの世を去りました。当時ペニシリンがあればと、つくずく思いますね。

政治の表舞台に立ったこともない女性の写真を教科書が載せている理由は「鹿鳴館の華」として、西洋化の象徴的に載せているだけではないのです。彼女の半生と美貌は日本の政治や外交の一翼を担っていたからです。

ドライで現実的だと言われるZ世代の若者は、教科書のこの写真の裏にある彼女の人生をどう感じるんでしょう?

追記:女の反応

私は「この人キレイやろ」と教科書の写真を中学生に紹介することがあります。でも、「そうですね」とも「きれいだけどオバさんじゃん」とも言った女子中学生は、今まで一人もいません。「今の時代の基準ではない」という冷静な評価も聞いたことがありません。大抵「フ~ン」です。女の女に対する嫉妬は中学生にはもう完成されているのです。

私の反応

花街という修羅の世界で生きたきたこの女性の男を見る目は凄かったんでしょう。でも、そういう女性に全員男を見る目があるわけでもない。それに、17歳ですよ・・・いまの女子高生などと経験も知性も全くレベルが違う。今の30歳の女性でも勝ち目はないと思う。当然、私など相手にもされない。世の中の99.9%の男性も同じです。

先妻に先立た直後に傷心で、子供も2人も抱えた陸奥宗光でも、17歳の女の子の掌でコロッっと転がされたことでしょう・・・先妻、可哀想じゃん! 苦労知らずの華族の男など鹿鳴館ではいくらでも手玉に取れる。アメリカの白人でも「エキゾチック」と一発だった?

私はこの教科書の写真以外で彼女の姿を見たことはありません。和装姿の彼女が残っていないのは残念だぁ~!

豆知識

江戸時代の美人というと、浮世絵の面長で切れ目でというイメージです。しかし、江戸時代末期からはこの基準は180°転換します。美人の基準は現代とそれほど変わらなくなります。その代表が陸奥亮子です。

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芦屋で500人以上、個別指導20年のベテラン講師が、毎日・全教科、中学生と高校生を指導します。御影高校・神戸高校、関西学院・同志社・神戸大学・大阪大学を目指す特進個別塾です。