国語の学習 進め方と問題点
国語の教科書とは何か?
国語の教科書では、何の目的もなしに教科書会社の気に入った文章が選ばれているわけではありません。その学年で教えなければいけない内容に適した文章が選ばれて教科書に載せられています。もちろん、その教えなければいけない内容とは、他の教科と同様に、文科省が「この学年では、こういう文章の構成」「こういう人物描写」を教えなければいけないと定めたものです。それを満たした教科書でないと文科省の教科書検定はパスできません。
国語の教科書を使って教師は何を教えるのか?
だから、その『教えなければいけないこと」に沿って学習することが大切です。
その教えなければいけない内容がまとめられているのが、各文章の末、作者の紹介や新出漢字の後に書かれている「学習の手引」です。この名称は教科書によっても違うと思いますが、設問のような形で「段落に分けてみよう」「登場人物の心情を整理してみよう」というような事が書かれているはずです。
学校先生のほとんどが持っている指導要領は、この学習の手引に沿った形でどう授業を進めればよいか教科書会社がまとめたものです。もちろんテスト問題も作り方も指導要領に沿って教科書会社がアドバイスしています。この点は国語の学習で特に重要です。教科書の文章がそのまま出題される学校のテストでは、数学のように色々な問題集から問題を拾ってくるということは出来ません。かと言って、自分で「このときの主人公の心情を述べよ。」などの解答も作りにくいわけです。だって、教師の方も、指導要領のような指標がないと、自分の解答が100%正しいかなんて確証できないですから。だから、他教科より教科書会社のアンチョコに頼ることになります。
では、私達はどう学習すればいいのか?
我々が手に入れられる形では、教科書ガイドがその学習の手引の解答や考え方を示しています。ですから、学習の手引を見ながら、「ああ、これはここのことを教えてるんだな。じゃあ、ここがテストに出るんだ。」と授業を聞くことが大切なわけです。
それに加えて、教科書ガイドを見ながら「学校の授業で先生の言っていたことはこういうことなんだ。」と復習すればいいわけです。そして、教科書準拠問題集などで「ああ、この問題はあそこのことを聞いているんだ。」と確認しながら解けばいいのです。
ですから、私は教科書ガイドや教科書問題集を選ぶ際は、指導要領との乖離が少ない教科書会社の物を選びます。
ここで困った問題が起きる
とここまでは理屈通りなんです。ところが、学校の先生によっては困った事が起きます。文科省が定めている「ここではこれを教えろ。」を無視した授業をする先生が国語では少なからずいるからです。他の教科では、「方程式は気に食わないから教えない。」「この解き方は苦手だからパス」は通用しませんが、国語では通用している。教える内容も曖昧ですが、一番の問題は教師の独立裁量権が強すぎてきちんと教えているかどうかチェックする機能が学校組織にないことです。もちろん、「方程式教えてないやん!」というように国語では保護者もチェック出来ないことも理由です。
国語嫌いを作る国語の教師
指導要領にプラスしていろいろな読解の方法を教えるのは素晴らしいことです。でもそれは、塾で教えている私などが「そうやな。」と納得できるものであればだと思うんです。そういうものであれば、授業のノート見て「これはな・・・」と生徒に説明もでき、生徒も納得できます。「テスト前にノート見直そうな。」と指示も出来ます。
しかし、どう考えても「そんな理屈はないやろ」というようなことを教えて、私ばかりか生徒の方も「?」となることがあるわけです。生徒が優秀で理解力があればあるほど、そういう授業をされると理解不能になります。そして、そういう理解不能な問題がテストに出され、あるいは理屈通りの解答がバツにされると生徒は国語を嫌いになるんです。優秀な生徒ほど、理解不能な状況に耐えられず、国語が嫌いになります。まあ、まともな生徒はみんな理解不能で点数も悪くなるのでライバル間の成績差はつかないんですが、今まで取ったこともないような点数を取ってショックを受ける生徒はかなり多いです。
これで国語が嫌いになって、神戸高校には進めずに御影高校に進んだ生徒が、高校から塾に来たことがあります。優秀でしたよ。某上位国立大学に進みましたけどね・・。まあ、そういうことで有名な国語の先生なんですけどね。こんなのを雇い続けるのが、学校の問題点なんですよ。
生徒には「気にするな。君が悪いんじゃない。運が悪かったんだ。友達もみんな同じだよ。諦めるしかない。」としか言いようが無いんです。でも、そういう状況を分かっていない保護者の方からは塾は責められるんです。私も「運がなかったんだ。どの塾でも同じ事になっている。諦めるしかない。」 と自分に言い聞かせるんです。