実力主義も運のうち/マジメはデキる生徒の餌食になる

とても面白いです、是非ご覧ください/最近の私のネタ動画です

能力を認めたうえで、一番得になる選択をしよう

苦手科目を頑張って成績を上げることが良いのか、苦手科目に執着することによって得意科目の学習が不十分になって自滅するのか、それは学力に応じても、個人の特性に応じても、様々です。

たとえが、個人の能力が一番色濃く反映される科目は数学や物理です。こういう理数系科目は、得意と不得意がはっきりしていて、その多くは生まれ持った能力に依存している。その中で数学を学習する方が良い生徒は、努力して偏差値が62ぐらいに上げれる生徒です。あるいは、自分がトップクラスの成績を取れる中堅高校で、尚且つその高校が指定校推薦の枠を多く持っている場合です。

そうすれば、関関同立などの理系としても就職がある大学に行ける。これ以下の大学だと、理系とは名ばかりで、理系としてまともな就職は難しい。

文系で数学を勉強するというのなら、偏差値65くらいは必要です。だって、文系で数学を取るということは、数学が受験科目にある関学以上のレベルの国立大学に進むことです。数学を無理やり学習して関学以下の公立大学に進んだところで意味はない。ということは、神戸大学を目指すということです。偏差値65は必須です。

あるいは、関関同立以上の指定校推薦を狙える場合です。全教科満遍なく学習しなければならない。ただ、その場合、自分より成績の良い生徒が気まぐれに「それだったら、私も」と言えば、すべて努力は瓦解するリスクがある。リスクは一般入試以上です。そして、中堅高校で指定校推薦を目指して満遍なくソコソコの成績を取る学習をしている程度なら、英国社や英数理の主要科目で関関同立に行ける学力は身に付いていない。指定校推薦で蹴られて秋から2カ月頑張っても、一般受験で関関同立は難しいと思いますよ。

能力主義の否定は結果平等を潰し、エリート層に有利な社会になる

上のビデオでも言っていますが、機会平等を標榜し能力主義を肯定すると、能力差によって途方もない格差の社会が生まれます。機会は均等で負けたのだから、努力しなかったお前が悪いと失敗者は成功者から言われて、その状態を甘受しないとならない。

これは、言い換えれば資本原理主義で社会が不安定化した20世紀前半と同じです。だから近代国家は、結果平等主義を少し担保するために「文化的で健康的な人生」を憲法で規定したというのは、ドイツのワイマール憲法のところで中学で学びます。この人類の英知を、21世紀に入って、私たちは再び否定し出した。

学校の教師も、「クラブはもちろん、数学も古文も全部勉強せい!」とすべての生徒に、ある意味全ての教科の努力を求めています。それは、すべての教科が得意な最上位の生徒には有利に働くが、数学が苦手だけれど英語は得意というような良くある生徒には不利に働きます。でも、それで受験に失敗しても教師は責任なんか取ってくれませんよ。

だから、学習に最上の適性がない生徒は、自主的に学習を選択し、自分で武装しないといけない。言い換えれば、責任も取らない教師に「数学悪い。」「古文赤点ギリギリ」と言われても、英国社や英数理の3教科受験だけで成績を上げて、少しでもいい私立大学に行こうと自分で選択しなければいけない。言い換えれば、学校が打ち出している優等生に有利に働く機会平等という建前を蹴って、結果平等になるように自分の能力を査定し、自分の努力を計画しないといけない。

親御さんも、目先の見栄ではなく、自分の子供に何が有利かよく考えましょう。

学校は理系なら理系科目だけで学年順位を出したらいいのに、全科目で全体順位を出して「成績が上がった」「下がった」と親を脅して、全教科学習させようとします。私は、そういう指導が理解できないんです。なぜなら、私は教師や教育者ではなく、普通の社会の構成員だからです。だから、「高校なんてものは、大学入試のワンステップでしかない。」としか思っていないから、なんで理数系志望者が日本史を必死に暗記するのか理解できないんですよ。

それに、あんな細かい日本史、入試以外の通常の社会生活で必要ですか? 理科でもそうです。 必要な知識は中学の義務教育で十分教わっています。中学と高校の子供たちを教えていると、義務教育がいかによく考えられ、素晴らしいものであるのか本当に分かります。社会で生きていく必要性の面でも高校の学習など関係ない。とすれば、大学入試と以後の専門教育のためでしかない。文系で数学の難問を解く必要などない。

しかし、親は目の前に突き出された成績に慌てふためき、子供の将来を考えるより目の前の成績を上げることに躍起になってしまう。結局は、全教科で優秀な特別なエリートだけが有利に働き、「数学は捨てて、英語で勝負する。」「国語はダメで、得意の数学を磨く。」という努力で上がらなければいけない庶民層の生徒が淘汰される。

そして、残念なのは、もう手遅れになった3年生の受験期になって、「やっぱり国立は無理だから、関学にしようかと・・」なんか言いだして、それまで満遍なく努力させてきて、結局は3教科受験の学力が関学のラインに届かずに失敗することです。このタイプの方は非常に多い。大部分と言ってもいいでしょう。塾でも「コイツは関学だ。」と分かり切ってはいるが、「学校では国立大学にとも言われてます!」って言ってる親御さんに「数学なんか止めて、関学の英国社に専念しろ!」なんて言ったらトラブルが起きるから、絶対に言わない。

全教科得意で大学共通テストを受けて大阪大学に進んでも、英語と国語だけ必死に頑張って早稲田や慶応に行っても、結果には何の差もないんです。下手に兵庫県立大学に進むくらいなら、関学に行った方が数段良いんです。昔なら誰でも普通に考えたことが、最近の親御さんの頭から飛んでいる。学校や塾からバイアスのかかった情報ばかり流されるからです。

「高校時代が大切!」「どの教科の成績も・・」なんて思っているのは、学校と教師、それにその中にズブズブに取り込まれている子供と親だけです。全教科満遍な学習して、入試に関係のない不得意科目に時間を割いて下位大学に行った学生と、得意科目だけを学習して他は赤点スレスレで関学に行った学生と、企業はどちらを採用しますか? ヘタな学歴と就職になっても「高校で不得意科目頑張って受験に失敗した。」という自己満足を、一生自分の宝にして墓場まで持っていくんですか?

高校生活の意義をよく考えましょう

普通の生徒がいかに努力したら最善の結果が得られるかという指導が、今の学校や塾からは消し去られている気がします。でも、それは特別に学習適性のある生徒の能力主義に有利に働くだけで、それが不利に働く生徒はいくらでも違う道があるのに、今の親も生徒はそれが分からない。機会均等主義を崇拝して、結果不平等主義を享受して、成功者に利用されている民衆そのものです。

何のために学習をしているのかという結果重視が、子供の前に大人が思惑と思慮不足で頭から飛んでいる。機会平等主義の行き過ぎた崇拝はろくなことにならない。高校は義務教育ではありません。少しでもいい大学に進み、少しでいい社会生活を送るための準備期間に過ぎません。教養を身につけるためのものではないんです。

走るのが不得意な生徒は10種競技なんかにエントリーせずに、ハンマー投げででもいいから得競技でメダルを取るべきなんです。メダルの栄誉は同じです。

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芦屋で500人以上、個別指導20年のベテラン講師が、毎日・全教科、中学生と高校生を指導します。御影高校・神戸高校、関西学院・同志社・神戸大学・大阪大学を目指す特進個別塾です。