なぜ在日フランス人は「暴動の真実」を語らないのでしょうか――教育と命の分断、そして西洋の階級意識

日本のニュースやYouTubeを見ていると、フランスでデモや暴動が起きるたびに、「それ見たことか、移民を受け入れた国の末路だ」「治安が崩壊した」といった、極端で分かりやすい解説ばかりが目立ちます。現地の教育や社会制度を知らないまま、ネット上の話題作りとして消費されてしまっているのが現状です。

しかし、教育に携わる者として、また一人の大人として疑問に思うのは別のところにあります。

日本に暮らし、流暢な日本語でメディアやSNSを通じて「フランスの魅力」を発信しているフランス人の方々です。彼らはなぜ、あの抗議デモの引き金を引いた「現地の若者たちの切実な怒りの根底にあるもの」を正確に伝えてくれないのでしょうか。

今回は「フランスのデモの深層|都心部の上流階級優遇の教育制度と税金配分、郊外の高校生の絶望」で書いたことを、別角度から見てみたいと思います。

1. フランスの高校生のデモはなぜ起こったのか?

発端となった高校生たちの抗議デモの本質は、単なる移民問題などではなく、「教育と社会保障の崩壊による、階級の完全な固定化」に対する正当な怒りです。ユーチューバーなどが取り上げている暴動は、その高校生の平和的デモに乗じて暴動を拡大し略奪を行ったブロブラックブロックなどという集団あるいは貧困と差別にあえぐ移民の人たちです。フランスでもこの平和的な真っ当な主張を行った高校生のデモと、後にそれに加わった暴動集団とは切り分けて考えるべきだと言われています

では、なぜ高校生がデモを行ったのか簡単に解説します。詳しくは「フランスのデモの深層|都心部の上流階級優遇の教育制度と税金配分、郊外の高校生の絶望」をお読みください。

フランスでは、上位のエリート大学へ進み、国や大企業の中枢に就職できるルートは、ほぼ都市部の名門校に独占されています。そして驚くべきことに、その特権的な進学ルートには国家の税金が手厚く注ぎ込まれ、上流階級の子弟が優先的に選抜される仕組みが出来上がっています。

一方で、都市部の地価高騰によって郊外へと追いやられた一般の庶民階級はどうなるでしょうか。子どもたちが通う郊外の公立校には予算もろくに回ってきません。雨漏りが放置され、教員不足で授業が成り立たないような荒廃した現場で学ばされています。

そして何より残酷なのは、マクロン政権下の大学入試・進路選抜システム(Parcoursup)の導入に伴う「学生の成功と進路選択に関する法律(ORE法:Loi relative à l’orientation et à la réussite des étudiants)」などの教育改革によって、出身高校の格差が直接アルゴリズム選考に反映されるようになり、どれだけ本人の成績が優秀であっても、郊外の公立校から上位大学へ進む道が制度的・環境的にほぼ完全に閉ざされてしまったという現実です。一度郊外の公立校に振り分けられてしまうと、一生をその階層のまま過ごさざるを得ません。

かつてのフランスであれば、それでも社会的な納得感がありました。「出世はできなくても、仕事は夕方に終わり、家族と食事を楽しみ、夏には長いバカンスがある。エリートにはなれなくても、心豊かに暮らせるからいい」という、庶民側の“諦めと妥協”が成り立っていたからです。しかし、近年のインフレはその生活基盤を奪い去りました。

それどころか、かつて世界一と誇っていた公的医療までもが機能不全に陥っています。今や一般の公立病院では専門医に診てもらうだけで数ヶ月待ちが当たり前になり、診察を待つ間に病状が悪化して手遅れになってしまうケースが後を絶ちません。さらに現場では、冷酷な「トリアージ(命の選別)」が行われています。限られた医療資源を理由に、20代の若いがん患者であっても公的な手厚い治療から外され、実質的に緩和ケアへ回されてしまう現実があります。一方で、富裕層は高額な私立病院や自由診療を利用し、公的な順番待ちを飛び越えて最先端の治療を受けることができます。

「教育の機会」だけでなく、ついに「生きる権利」にまで決定的な格差が持ち込まれています。バカンスも奪われ、病気になれば見捨てられる。努力しても抜け出せない格差だけが残されたとき、高校生たちが街頭に出て声を上げるのは、未来を求めた切実な訴えなのです。

2. なぜ在日フランス人は口を閉ざすのか

では、なぜ日本にいるフランス人インフルエンサーの方々は、この実態を語らないのでしょうか。

もちろん彼らは、国家の中枢を担うような一握りの超特権階級ではないかもしれません。しかし、日本という遠い国に渡航し、言葉を学び、SNSやメディアで発信活動を行えるだけの時間的・経済的なゆとりを持っている時点で、中産階級からアッパーミドルに属する「恵まれた層」であることは確かです。環境の整った地域の学校に通い、ソルボンヌ大学のような一流の公立大学へ進学し、相応の教養とキャリアを得られる安全圏で育った方々です。

だからこそ、彼らは「郊外の荒廃した公立校で未来を奪われ、絶望している若者たち」の現実を、肌感覚としてご存じないの顔しれません。知っていたとしても、彼らにとって同世代のデモは、どこか遠い別世界の出来事に見えているのかもしれません。

また、日本向けに「お洒落で洗練されたフランス文化」や「自由で平等な先進国」というイメージを発信しておられる以上、自国の深刻な教育格差や医療崩壊という暗部を自ら明かす動機がないというビジネス上の事情もあるでしょう。

ですが、知っていたとすると、同じ国の若者たちがこれほど不条理な現実に苦しんでいるのに、「なぜ何事もないかのように受け流せるのか」という疑問が正直残ります。ビジネス上の都合だけで黙っていられるものなのでしょうか?

3. メイドを「背景」にする西洋と、日本人の倫理観

ここには、日本と西洋における「人間観」や「階級意識」の決定的な違いがあると私は考えています。

幕末から明治にかけて活躍した福沢諭吉は、その自伝である『福翁自伝』のなかで、欧米使節団として訪欧した際に見聞きした西洋の召使文化や身分社会のありように触れ、日本人との感覚の違いを記録しています。

西洋の貴族や富裕層は、食事のあいだ給仕をするメイドがずっと横に直立していても、何一つ気まずさを感じることなく平然と食事を続けます。その異様さを書き連ねたのです。私たち日本人の感覚であれば、同じ人間が目の前で食事もせずに立っていれば、いくら使用人であっても「申し訳ない」「気まずい」という同情や居心地の悪さを覚えてしまいます。しかし、長い階級社会の歴史を持つ西洋では、使用人を「同じ生身の人間」としてではなく、「食事を運ぶ機能」や「動く家具(背景)」として心理的に切り離して捉えることが当たり前とされてきました。

この「下層階級を機能として割り切る西洋の冷酷さ」と「日本の情緒的な人間観」の相違については、福沢諭吉だけでなく、留学先で西洋近代の孤独と冷徹さを見つめた夏目漱石や森鴎外、さらには昭和を代表する評論家の山本七平や作家の司馬遼太郎といった多くの先人たちも、それぞれの著作のなかで繰り返し指摘してきた本質的なテーマです。

今のフランスのエリート層やマクロン政権の姿勢も、まさにこの延長線上にあります。マクロン大統領が進めたバカロレア改革(高校卒業・大学入学資格試験の抜本的再編)やORE法による選抜制の導入が、結果的に上流階級に極めて有利に働いていると猛反発を受けながらも平然と強行できたのは、彼らにとって郊外の庶民や高校生たちは「横に立つメイド」と同じく、視界には入っていても心に留める必要のない存在だからです。

こういいう感覚があるからこそ、若者たちの切実な抗議デモに対しても、共感を寄せるどころか「街の秩序を乱す迷惑な存在」として冷淡に処理できてしまうと思えるのです。

この中産階級を切り捨て上流階級の格差固定を行ったマクロンの発言は以下の通りです。

「変化を拒む怠け者たち(fainéants)に屈するつもりはない」

「私なら、道を渡ればすぐに仕事を見つけてみせますよ。向かいのレストランやカフェに行けば人手不足ですぐ雇ってもらえる。文句を言って探していないだけだ」

「子どもを家の中に留めておくのは親の責任だ。国家が親の代わりをするわけにはいかない」

「暴動を起こした未成年の親に対して、速やかに法的・経済的な罰則(罰金や手当の停止など)を科すべきだ」

高校生の平和的デモと暴動をひとくくりにした、酷い発言です。フランス国内からも正当な高校生のデモと、それに乗じた暴動略奪をひとくくりにして見下げた最低の大統領と庶民からは論じられています。

彼らは庶民がインフレや住宅ローンの支払いにあえぐ苦痛を意に介さず、机上の理論だけで急激な利上げを強行し、庶民の生活を平然と締め上げました。そればかりか、現実的なエネルギー供給や産業基盤の裏付けもないまま、極端な「環境至上主義」へと盲目的に突っ走っています。

そして、この「冷徹なエリート目線」は一国のリーダーにとどまりません。欧州中央銀行(ECB)や欧州委員会(EU委員会)といった、選挙の審判すらまともに受けない超国家的な特権階層の振る舞いにも、まったく同じ構図が貫かれています。

その結果として起きたのは、ヨーロッパの屋台骨であったはずの自動車産業や化学産業の急速な疲弊と工場閉鎖、そして何万人もの庶民や熟練労働者を襲う過酷なリストラの嵐です。ブリュッセルやフランクフルトの瀟洒な執務室で優雅にワインを傾けるエリート官僚たちにとって、現場で職を失い路頭に迷う労働者の叫びもまた、「横に直立するメイド」と同様に、崇高な理念の陰で風景化され、見捨てられていく存在でしかないのです。両者とも、ヨーロッパ各国の庶民からは痛烈な批判にさらされています。

4. 私たち日本の未来――中産階級の黄昏と教育のゆくえ

ひるがえって、私たちの日本社会はどうでしょうか。

名目GDPでドイツに抜かれ、インドやイギリスにも抜かれて世界第6位へと後退していく現実に、「日本は没落した」と自嘲する声も少なくありません。しかし、社会の内情や治安、医療へのアクセスや教育の機会均等という点においては、今のヨーロッパの深刻な分断と比べれば、日本はまだはるかに健全で恵まれた状態を保っています。

しかし、それもいつまで続くかは分かりません。

欧州諸国は、インフレや経済危機に直面するたびにエリート階級が庶民の痛みも感じずに利上げや緊縮財政を行い、その痛みを庶民や若者に容赦なく押し付けることで今の荒廃した社会に至りました。対して日本は、国が赤字国債を膨大な規模で発行してその痛みを背負い込み、痛みを先送りしてきたからこそ、分厚い中産階級が温存されてきたにすぎません。

しかし、その国の借金ももはや限界に達しつつあります。膨大な国債費を抱える中でインフレが進み、金利が上昇すれば、国が国民の痛みを肩代わりし続けることは不可能です。国債の金利を押さえたままインフレによって実質的に希釈化していくしか残る道はなくなります。その過程で、物価の暴騰が庶民の生活を直撃し、やがて日本の中産階級も取り残され、今のヨーロッパのような残酷な二極化社会へと突き進んでいくリスクは十分にあります。

20年、30年という時間稼ぎの猶予があったとしても、最終的にそのツケを払わされるのが一般庶民であるという現実は、日本も欧州も同じなのかもしれません。

そうした激変の時代が訪れたとき、現在過熱を極めている中学受験ブームや、安易な私立高校の実質無償化、そして定員割れを起こしながら延命している中堅以下の私立大学は、早晩立ち行かなくなるでしょう。家計が防衛に入り、公金によるバラマキの限界が来れば、見せかけの学歴や実質のない私立教育は容赦なく淘汰されていくはずです。

その時にミドリゼミも立ち行かなくなるかも・・・グスン

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