実は数学と国語は一番似ている科目 必要なのは出題者目線
数学の問題の解き方
「数学の解答の解説はなぜ分からないのか?」でも少し触れましたが、問題式や条件設定から出題者が何をさせようと意図しているのか考えることが数学の解法です。数学の学習は、基本的な解法からその分野の論点を学び、応用問題では数式や条件からどの論点を組み合わせてあるのか見抜くことに尽きます。入試問題では、さらにその応用問題の論点がどう組み込まれているか判断するわけです。
数学の苦手な生徒は、自分中心にどう解くのかばかり考えて、出題者に見事引っ掛けられてしまいます。まあ、言ってみれば、社会的知識もなく自分の感情中心に考える人間は、それを利用した詐欺に引っかかりやすいのと同じです。
国語の解き方
説明文では、この作者は何を論点に上げているのか、そのためにどういう理由をつけているのか、その理由を補強するためにどういう例を挙げているのか・・・それが各段落にどう割り振られているのか考えながら解くのが学習です。だから、理由説明の段落の次に例を挙げた段落に同じような理由が繰り返し書いてあったとしても「~の理由は?」と聞かれた際に例の段落の記載を指定してはダメなんです。それは、「どこに理由が書いてあるか分かっているやろな?」という問題意図を理解してないことになるからです。国語の苦手な方は、この点を分かっておられない。
さらに小説文では、作者が状況設定や行動設定で登場人物の人間関係や心理をどう描写しいているのか考えながら、場面設定の展開=段落展開を見抜きき、「こういうテーマを作者は描きたいんやな」と考えるのが学習です。中学ではその描写が直接人間関係や心理を描いていて、「~はどいう気持ちでしたか?」という設問に対してその個所を抜き出すだけでいいです。高校ではそれが間接的に描写してあり、ストーリー展開から読者が当然理解していることと乖離している場合があります。そこを入試の選択肢なんかでは引っ掛けるわけです。
いずれにせよ、国語は読者目線ではなく、作者目線で文章を分析することを学ぶわけで、いつまでも「この小論文はオレの考えとは違う」とか「この主人公悲しいよね。」的な自分中心の『読書』では国語力は身につかないわけです。
小論文は国語の最高の学習
以前から数学は「自分で苦労して解かないと、出題意図を掴める知恵は身につかない」からチャート式をなぞって解いているだけでは入試問題など解けるようにならないと言ってきました。国語も同じです。
じゃあ、国語で自分で解くとはどういうことか? 問題を解いて考えても曖昧模糊とした作者の意図などなかなか分からないですよね。これが国語の学習がやりにくい原因なわけです。だから、自分で文章構成をして段落構成をして、自分で作者になればいいんです。そうすれば、どういう形で文章はできていて、どう苦労して書かれているのか身をもって分かることになります。同じ作者仲間になれば、問題の作者がどういう工夫で書いているか手に取るようにわかるというものです。
数学と国語の共通点
ということで、数学も国語も一番大切なのは、出題者目線で問題を見れるかという一点なわけです。そのためには、出題者や作者がその問題に使ったのと同じ程度の知識とその知識を使って問題を作るのに工夫したと知恵が必要なわけで、その点で知識だけを問われる理科や社会などとは全く違った科目です。英語の長文読解も、下線が引いてあり「訳せ」と書かれているようなところには、文法的な混乱があって、キチンと文法的に裏付けを取らないで訳していると必ず出題者の作為通りに引っかかるようになっています。知識とある程の知恵も必要なわけです。
知識は覚えれば身につきますが、知恵というものは自分で苦労して頭を打って初めて身に付くものなのです。だから、学習には数学が一番時時間がかかり、次は英語、そして国語はその理屈が前2者より曖昧なために「学習のやり方が分からない」となっているわけです。それに比べて、社会や理科などの学習時間などたかが知れているわけです。
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