目標があるんなら踏ん張れよ! 他人の評価が介在しない入試なんか、君の頑張りだけでどうにでもなるんだから
中学・高校の評価は社会の評価よりシンプル
中学や高校の評価は、簡単に言うとテストの点数で決まります。努力の物差しが絶対的な評価で、非常に単純です。スポーツなどでは陸上競技と似ています。向き不向きはありますが、努力結果を享受し、周りに認めさせられない人間はいないんです。
ところが、大人の社会では、いくら頑張っても相手から「要らない」「嫌いだ」と拒絶されればそれまでなんです。スポーツではチームプレーのサッカーなんかと似ています。いくら練習して上手くなっても、監督が代わって「私のプレースタイルには要らない」と言われればベンチ要員になるかトレードに出されます。
また、「好き」「嫌い」で評価されることもしばしばです。これはスポーツの世界で言うなら、ファンからの評価です。頑張って成績を上げた選手や監督に人気があるとは限らない。プロチームの監督でさえ監督の手腕からではなく、選手時代に人気のあった生え抜きから選ばれます。勝敗の評価が明確なチームの責任者でさえも「業績」より「人気」で選ばないとファンからソッポを向かれるんです。会社でも業績だけを見た絶対評価はなく、どんな人事査定も「人の和」という曖昧な「好き嫌い」の項目でひっくり返されます。
もちろん、通知簿では相対評価の面もあります
例えば、中学時代の通知簿では各教科の評価欄のトップ項目は「学習の意欲や姿勢」という項目です。もちろん、提出物などで絶対的な評価をする公正な教師もいますが、「オレはそう思う・思わない」で評価をする教師もいます。この項目のせいで通知簿がワンランク下げられるなんてしょっちゅうです。気にくわない生徒への教師の復讐にも、好きな生徒へのひいきにも使われるわけです。
大人の社会では、この項目の比重が非常に大きいと言ってもいいでしょう。だって、いくら絶対評価だと言っても、テストのように公平に評価できない仕事が多いので、どうしても評価側の主観が入るからです。例えば、ベンツの販売会社の芦屋支店があったとしても、山の手の高級住宅街が業務範囲の社員と阪神沿線が業務範囲の社員とでは全く販売の苦労も販売台数も販売内容も違うでしょう。顧客層が違うのだから当たり前です。だから絶対評価だけでは評価できません。業績は上司の主観で補正されるわけです。いわば、進学校の難しいテストと中堅校の簡単なテストの点数をどう比べるかというようなことがあるわけです。その際に、全国統一模試のように尺度となる補正機構はないわけだから、評価側の主観に最後は依るわけです。
テストは絶対評価です。塾の仕事は相対評価を言い訳にさせないこと
人の受けがよく、クラブやクラスでも人気者あるいはキャプテンなんかを任されるという生徒は、テストには不満を持つかもしれません。だって、いつもは自然に手に入る「他人の相対評価」がテストでは手に入らないからです。逆に、実力はありながらもそう面白くもないポジションを任されがちな生徒には、テストというものは非常に素晴らしいものに思えるかもしれません。「他人による相対評価」で貶められることがないからです。
いずれにせよテストという評価機構は非常にシンプルで単純です。私の仕事はそのシンプルで単純なシステムを生徒に分からせることにあります。だって、他人の相対評価の恩恵からそのシンプルなシステムが分かってない生徒、あるいは他人からの相対評価のせいで貶められることに慣れてそれを自分の努力不足の言い訳にする生徒、さらに評価には結果という恐ろしい現実が最後にはやってくるということを身に染みてない甘ちゃんでは、生徒は「言い訳」で逃げようとします。その言い訳を言わなくさせることが、私の最大の仕事です。
勉強などやることは決まっています。「中学3年の冬休みまで本気を出さない子供たちの将来」にも書いた通り「どうすればいいのか分からない」なんてことはありません、「楽をするにはどうすればいいのか分からない。」と多くの生徒は言っているだけなんです。その甘えを取り去れば、後はこちらからやかましく言わなくても、勝手に勉強して成績はあがります。逆に、そこに甘えがある限りは、こちらがいくら一生懸命教えても成果は出ません。
勉強の解法を教えることとは違い、この生徒の追い込み方が難しい。先日から、あまりにも厳しく追い込むので、あちらこちらからクレームを頂いております(´;ω;`)ウゥゥ・・・。でも、このくらいやらないと、堪えないんだけど・・・やさしくしてきたツケが今の状態なんですよ・・結局は学歴・就職ということで子供が大きな代償を払うことになるんです。