発達障害児童の区別を差別というなら、入試は差別じゃないか?

とある遠足の光景

ある小学校の遠足に出会いました。驚くほど大きな声が休む間もなく聞こえてきて、私は「ヤレヤレ・・・またロクでもないのにあたったな・・」と静かに紅葉を楽しめない不運を嘆いていました。

ところが、その大声でおしゃべりをし倒しているのは、遠足の行列の先頭の先生の次に並ばされている数人の生徒だけで、その後ろの数十人の生徒は静かにしています。特別に問題がある生徒は先生のすぐ後ろに入れて、学校は注意深く遠足していました。

この問題児たちは別に奇声を上げているわけでもありませんが、ピントのズレた大声のおしゃべりを延々と続けていて明らかに「グレーゾーン」の子供たちだというのは、誰が見ても一目瞭然です。

寒気がする授業風景

授業でも、こういう数人の子供たちが教室内をかき乱し、先生はそれを押さえるのに全力を出し、肝心な「教えること」は手薄になっている様子が、まざまざと想像されます。

特に中学受験が盛んな地域では、こんな子供に引っ掻き回される学校など、勉強する場所ではなくなっていることでしょう。

そりゃあ、親からすれば自分の子供はマトモだと信じたいでしょう

こういう子供を数人普通のクラスに入れて授業を混乱させて、その他数十人の基礎学力を奪い、後の人生に大きな悪影響を出し、引いてはまともな職にもつけなくなり、日本の国力に悪影響が・・・となるのであれば、こういう状態を野放しにしておくことは国の税金を使っている義務教育としてはあり得ないのではないのか?・・・と、私は正直に思います。

数人のグレーゾーンの親の納得感を得るためだけに普通クラスに入れて、教師は疲弊し、多くの子供はしわ寄せを食らう状況はそれでいいのか?・・・と、まあ、その尻拭いをしないといけない塾のオッサンは思ったわけです。

グレーゾーンの子供を別に教えるのは差別なのか?

おそらく、まともに授業を理解することも出来ない子供を、親の満足だけで普通クラスに入れないといけないのは「差別が悪い」からなのでしょうか?

「みんな一緒に」というキレイごとは、入試や学歴の前に通用することなんでしょうか? これほど厳しくなって勝ち組だけが充足した生活を送れる社会でも通用することなんでしょうか? 悲惨な将来への扉を開きかねない学校の授業で取り入れないといけないことなんでしょうか?

・・・こんなことを書くと、少数の声のデカい人間に「なんて酷いことを書く奴だ」と言われるかもしれませんが、でもそういう人に聞きたい。「じゃあ、多くのしわ寄せを食らう生徒の学ぶ権利や将来の人生はどうなるんだ? お前たちの方がよほど酷いことを多くの生徒にしているのではないのか?」「弱者にも親切にというキレイごとのために自分を犠牲にして渡って行ける甘い学歴主義・世の中なのか?何のために中学受験する子供がこれだけいるんだ?」

みんなが実質的に良い環境を得るために、区別は必要だと思うんですよ。区別が差別だというのなら、学力別に行く学校が決まる入試は一体何なんですか?立派な差別でしょう? 

その帰りに電車で見たジジババ

鼻をマスクから出し、大声で途切れることなく車内で喋るジジババどもは、発達障害なのか、痴呆なのかどっちなんでしょうか?

こういう人種も、区別して電車から放り出して欲しいんですよ。

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芦屋で500人以上、個別指導20年のベテラン講師が、毎日・全教科、中学生と高校生を指導します。御影高校・神戸高校、関西学院・同志社・神戸大学・大阪大学を目指す特進個別塾です。